“至福ディボーション”のススメ
「やらねば」から「待ち遠しい」へ ディボーションはすみましたか?

野田 秀
東京フリー・メソジスト教団 桜ヶ丘教会協力牧師

ディボーションということば

 いつの頃からか、教会とクリスチャンたちの間で「ディボーション」ということばが使われるようになった。それが「いつの頃から」であるかはともかく、すでに一般化したこのことばには、その使われ方に、少なくとも二つあると思う。

 一つは、クリスチャンたちの集会や会合の始めなどに、短く持たれる小礼拝のようなものを指していう場合であり、もう一つは、クリスチャンが個人的に持つ、日々の祈りの時を指していうものである。ここで取り上げるのは、その後者についてである。

 それは、かつて「密室の祈り」(マタイ六・六から来たことば)といわれていたものであるが、それが次第に「ディボーション」という言い方になっていったのは、「百貨店」が「デパート」になったように、時代のもたらしたものかもしれない。

 「ディボーション」ということばを英語辞書で引いてみると、あることに向かって、ひたむきに時と心をささげることを意味していることがわかる。だから、それを、私たちの信仰に当てはめるなら、時をとって神と交わることにより、主への信頼と献身を新たにする日々の営みのことであると理解することができる。

 

ディボーションの必要

 ディボーションがなぜ必要であるかということは、それを毎日の食事に例えるとわかりやすいかもしれない。

 私がそのことに気づかされたのは、神学生時代の一つの経験による。

 一九五六年から三年間、私は、寄宿していた教会から電車で片道一時間半かかる神学校に通った。

 大変なのは金曜日であった。教会では金曜の朝は断食と決められていた。そして、神学校の昼食は一杯のうどんと決まっていた。夕方、教会に戻ると、金曜は宣教師のバイブルクラスがあり、いつもより夕食が遅かった。だから、金曜は空腹と睡魔と戦いながら、同時に霊的な学びと訓練にいそしまなければならない長い長い一日であった。

 「密室の祈り」の大切さを、この経験と結びつけることによって、私も、次第にその必要を理解できるようになったのであった。

 私たちは、日々の食事によって健康が支えられるように、たましいのための食事を必要とするのであり、その一つがディボーションなのである。食事をしなければやせてしまうように、信仰の食事をしなければ、霊的にやせてしまう。ディボーションが食事のようなものであるということは、実は、大変に単純な問題なのである。

 

ディボーションの内容と形

 ところが、その原理のようなものは単純なのであるが、それが簡単にいかないのが私たちの課題かもしれない。ディボーションへの渇きが薄い。とにかく忙しい。他にもしなければならないことが山ほどあるなど、私たちをディボーションから遠ざけようとする理由に事欠くことはない。

 けれども、ディボーションが必要であるのは、ディボーションは神との交わりの時だからである。それは、最も大切なお方に聴き、その方に語りかけ、その方について知る時である。それは、好ましい人とは時を忘れておしゃべりをするように、愛する主と話し込む時であると考えると良い。

 ディボーションは習慣化すると良い。聖書を読み、祈る。信仰書に親しみ、神について思い巡らす。こうして神との交わりを持つのである。だからといって、形式化し過ぎてもならないし、義務的になってしまうのは考えものである。工夫すれば、電車の中でも歩きながらでも、それは可能だからである。

 目に見えないお方と顔を合わせているかのように過ごすその至福の時を、どんな形であれ、生活の一部として持つ人は幸いである。

 さて「お食事はすみましたか?」

 そして「きょうのディボーションはすみましたか?」