苦難のとき、神はどこにおられるのか 主イエス・キリストと共に

ツインタワー
中野 潔
新島学園 新清心寮 舎監

一、私にできること

 私は、ある熱心なクリスチャンの人を知っています。彼は、聖日礼拝は、休んだことはなく、日常生活においても、みことばに従って、できる限りのことをして、多くの人を助けてあげました。夫の収入がなく、幼子をかかえて生活に困っている母親には、自分の家庭に一時引き取り、お世話をしました。若い人たちと意見が合わず、いろいろな問題が起こっている家庭には、話し合いの場をもうけ、和解の労をとりました。また、酒乱の夫のために離婚寸前にまでなっている夫婦には、夫の立ち直りに力をかしました。

 その他、彼のお世話になった人は、本当にたくさんいます。彼は、自分の生活もかえりみずに、誰にもできないほどの親切をしました。彼の家族もクリスチャンですので、一家をあげて困っている人のお世話をしました。彼は、多くの時間と労力とお金を、困っている人のためにささげています。

 一方、彼に助けられた人々はどうなったでしょう。助けていただいた人々は、非常に喜び、感謝していますが、その後の彼との関係はあまりよくありません。私は、この事実を見ながら、非常におどろき、また残念でなりませんでした。

 何が問題だったのでしょうか。それは、彼が主イエス・キリストの場所をあけておかなかったからではないでしょうか。

二、私とあなた

 マルティン・ブーバーは、人と人との関係は、「私とそれ」「私とあなた」という関係であると言っています。

 少しきびしい言い方かもしれませんが、私たちが自分の立場から相手を見ているときは、その関係は「私とそれ」という関係です。その関係は、たとえどんなに犠牲を払っても、どんなに努力しても、「私とそれ」との関係しか生まれてきません。むしろ、心のどこかに、「こんなにまでしてあげたのに」という思いがあります。そして、その気持ちは必ず相手に伝わります。助ける人と助けられる人との関係には、限界があります。

 「私とあなた」という関係を築くためには、私たちの仲保者であるイエス・キリストによらなくては、とうていできません。イエス・キリストは、お互いの立場を知り、苦しみ、悩み、弱さを知っていてくださいます。また、わたしを赦し、あなたを赦し、私を愛し、あなたを愛してくださいます。

 そして、キリストは、私のためにも、あなたのためにも十字架の上で罪のあがないのために死んでくださいました。そして、私とあなたが生きるものとなりました。私とあなたの立つ場は、キリストの赦しの場であり、救いの場なのです。

三、共に歩む

 今、私たちの生活は非常にせわしいものとなり、忙しくなりました。家庭において父や母が忙しさのあまり、子どもを一人にしておくことがあります。すると子どもは、「ママ、ちょっときて」とか「ママ、ここにいて」といいます。何もしなくてもいい、大好きなママにそばにいてほしいと訴えます。私はここに愛の原型をみるのです。

 困難の中にある人に何と言っていいかわからない、何をしてあげたらいいかわからない、ということがあります。しかしただそばにいること、共に歩むことが大切なのではないでしょうか。

 親しくしていた老婦人が突然、脳梗塞で入院されました。家族も友人も、彼女は何もわからないと思っていました。私がお見舞いに行き、彼女のベッドのそばでひざまずき、祈ったり、話をしたりしていました。どのくらいそうしていたでしょうか。ふと気が付くと彼女の手が動いたのです。思わず手をにぎりますと、彼女もしっかりとにぎり返しました。彼女は、すべて分かっていて、最後の力をふりしぼって喜んでくれたのだと思っています。

 共にいること、共に歩むことは、心の問題なのです。心を通わせることができてこそ共に歩むことができるのです。

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」(Iヨハネ4・7)