誌上ミニ講座「地域の高齢者と共に生きる」 第12回 承認されることの力
井上貴詞
東京基督教大学助教
高齢者の尊厳が守られることの対極にある高齢者虐待。残念ながら、国に報告される虐待件数だけでも毎年ゆうに二万件を越えており、明るみになるこれらも氷山の一角です。最終回では、私たちの身近で起こるこの問題に対するひとつの解決の視点を、二つの事例から考えてみます。
介護者のこころの複雑さ(事例A)
Yさん(六十三歳、女性)は、認知症で寝たきりの夫の介護者です。ヘルパーや看護師の訪問サービスを利用しています。Yさんは、教えられた介護がうまくできずに、夫を脱水症にさせてしまうようなこともありますが、夫の様子を愛情深く、いつも心配される方です。
そのYさんが、援助者の目の前で夫のからだを右手で激しく叩いてしまうことがあります。言葉の出ない夫が痛みのために顔をしかめたのを見て、あわてて援助者はYさんにやめるように促しますが、なかなか収まりません。
そのようなYさんに対して、援助者は言葉に出さなくても「虐待者」というレッテルを貼ってしまいがちです。
実はYさんは、若いときに夫から相当に暴力を受けたそうです。Yさんは、夫の世話を精いっぱいしているつもりでしたが、いくら懸命にやっても言葉が出ない夫からは、感謝やねぎらいはもらえず、過去のことを思い出したら、突然悔しさや怒りでいっぱいになり、手が出てしまったということでした。Yさんのこころの傷は深かったのです。
母親に手を上げる息子(事例B)
認知症があり、一人暮らしのIさん(七十七歳、女性)は、心臓発作がいつ起きて倒れてもおかしくない方でした。薬を飲み忘れたり、寒い冬に外出したりと周囲を心配させますが、いちばん困るのは別居のお子さんたちへの被害妄想でした。だれも寄りつかない状態の中で、近くに住む息子さんは、時々安否を確認されるのですが、たびたびIさんと口論になって、手を上げてしまうことがありました。Iさんが病状の説明を理解できないため、主治医は、受診の際に家族同伴を求めるのですが、息子さんに何度お願いしても付き添いは拒絶されました。
息子さんが受診に同伴しない理由。それは、大病院の受診で母親と一緒に長い時間を過ごすことでイライラが制しきれなくなり、再び母親に手を上げてしまうかもしれないという息子さんの判断(思いやり)からだったのです。息子さんも持病や失業などで大きなストレスを抱えていたのです。私は、それがなかなか理解できなかったのです。また、それまでは息子さんを否定的に見ることで、私は自己を正当化し、自分が傷つくことから逃げていたのです。
介護者を承認するということ
二つの事例の共通点は、介護者が周囲からは理解されず、むしろ非難されがちであるということです。高齢者虐待には、複雑な状況がからみあっているので、「悪者捜し」では解決できません。家族というシステムがバランスを崩し、機能しなくなっているということを認識して、悪い点よりも良い点に着眼するという見方が肝要です。
双方の事例とも、事態が好転したのは、介護者がひとりの弱さを抱える人間として「承認」された時からでした。
事例Aの場合は、いつも髪を振り乱して、着るものさえぼろぼろのYさんが、身綺麗にして介護者教室に来られ、その介護の苦労話を聞いてもらい、参加者一同からねぎらってもらったときからでした。
事例Bでは、「これまで一緒に病院に同伴できなかったのは、お母さんへの思いやりからだったのですね」と、私が息子さんに承認のことばをかけたときからでした。氷のような不信の壁がスゥーと溶け、息子さんの厳しい表情がほころんだのです。この後、息子さんはIさんの受診に付き添ってもくれたのです。
加害者と見られがちな介護者の多くも、心理的・環境的に追い詰められていて、ひとりの人間としての尊厳を奪われています。どんな介護者も愛されるべき存在なのです。そのことを承認することから、共に生きるかかわりが始まります。「見守り」の名のもとに何もしないのは、忍耐とは異なりますが、専門家の不用意な介入が事態を悪化させる場合もあります。困難な虐待の対応に即効薬はありませんが、一筋の光を信じ、祈りと愛とチームワークでできる取り組みを重ねていくことが解決への鍵となります。
高齢者をめぐって殺伐した砂漠のように見える地域社会で、クリスチャンが果たせる役割は決して小さくないのです。なぜなら、お互いを必要な存在として承認しあうことの少ないこの世において、力強く「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と承認してくださるお方を知っているのですから。
※事例はプライバシーの保護のため、事実や趣旨を歪曲しない程度に一部フィクション・再構成となっています。