誌上ミニ講座「地域の高齢者と共に生きる」 第3回 遠距離介護への理解
井上貴詞
東京基督教大学助教
遠距離介護への理解
ひとり暮らしのFさん(八十三歳、女性)は、心臓の持病のため布団干しや掃除機などの負担のかかる家事ができません。近くに親戚がいますが高齢のため、頼れる家族は長女のみです。長女のE子さんは、輸入品を扱う会社の経営者で海外出張もあり多忙です。高齢の母親の安否が気になりますが、E子さんの家族(夫と高校生の子ども二人)のこともあって、遠い故郷へ帰省するのは月に一回が限度です。最近Fさんが薬の飲み忘れや火の不始末があることをE子さんは非常に心配しています。
このような遠距離介護は、団塊の世代に多く見受ける現代的な介護のスタイルです。地域の高齢者を支えるためには、こうした遠距離介護の家族を理解する視点も必要です。
時間と体力、精神的藤
遠距離介護は、毎回イベントを行うような時間と手続き、体力を要します。一泊以上になりますので、仕事をしている方であれば、職場に迷惑をかけないような依頼や調整が事前に必要です。主婦の方であっても、家族の許可を得、自分の不在期間に夫や子どもの生活への悪影響が最小になるように、家事や子どもの教育のことなどへの細やかな準備が必要になります。夫の親と同居しているような場合は、さらに気遣いが倍増します。
こうした準備段階ですでに神経をすり減らした後に、電車や飛行機などを使って半日以上を費やして長距離を移動し、わずかな滞在時間で老親の台所の整理やふだんできない部分の掃除、調理の作り置きや日用品の補充、通院介助や公共機関への諸手続き、預金の引き落とし、場合によっては入浴の介護などや近所の方々へのあいさつまわりなどをこなすのです。それだけやっても、自分でやりたいと思った世話の半分もできないことに自責の念にかられたり、「たまにの世話で、気楽でいいわね」などの理解のない人の言葉で傷ついたりします。自らが健康上の問題を抱えていると、まさに自身の身を削っての介護となります。
金銭的負担
また、一回の通い費用が五万円位かかるとなると、それが月に一回であっても年間では大きな支出です。そのお金を夫の給料から出すとなると、夫に対する申し訳なさや気苦労を抱えます。独身者であれば、将来の夢への貯蓄はできなくなります。一泊のつもりで行ってみたら、親の具合が悪くなって滞在期間が延び、その間にパート収入が減るとか、仕事そのものを失うということも起こります。交通費などを親が負担する場合は、お金を絞り出す苦悩から解放されますが、老親が介護者に過剰な期待をしたり、依存状態がエスカレートしたりするとこれまた新たな問題の火種となります。
人間関係の課題
ほかにも、イエ制度の時代に育った親との価値観の対立、親から受けた愛情の不公平感を根に持つ兄弟との不協和音、職場での冷ややかな視線や待遇の悪化、配偶者や交際相手との信頼関係の喪失。自身の子どもの教育・養育の問題とのジレンマ……。親を思えばこその遠距離介護なのですが、金銭では解決できない二重、三重の様々な人間関係の嵐が介護者に襲ってきます。
特に、遠距離介護をする際には、家族(夫婦)の強い絆が必要なのですが、ちょうど親の介護が必要になる五十代から六十代の年代は、夫婦関係も脆く、危機的な時期とも重なってきます。遠距離介護をきっかけに家族が崩壊する危険をもはらんでいるのです。
教会にとっての三つの意味
このように遠距離介護をする家族は、理解されにくい苦悩を抱えています。遠距離介護の特徴を知っておくことは、教会にとって少なくとも三つの意味があります。
一つ目は、このような重荷を負う教会員や求道者への理解の助けとなることです。二つ目には、地域の高齢者との関わり中で知る遠距離介護者との接点を作りやすくしてくれることです。三つ目は、都市と地方の教会が教団教派の枠を超えて、キリストのからだとしての新しい連携のあり方を形成する契機にもなることです。
遠距離介護を含めた「別居介護」の具体的な支援のポイントについては、今後の連載の中で述べていきます。超高齢社会の深刻な問題の中にあっても芽生えている希望を育んでいきたいと思います。
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません」(IIコリント4章8節)