誌上ミニ講座「地域の高齢者と共に生きる」 第4回 離れて暮らす老親と子ども家族
井上貴詞
東京基督教大学助教
「地域の高齢者と共に生きる」
かつて三世代同居が多い時代において、子ども家族の存在は福祉の「含み資産」とも呼ばれました。しかし、今日においては、同居が即高齢者の幸福という神話は崩壊し、親の年金に依存する「年金パラサイト家族」という言葉すら生まれ、そうせざるを得ない社会の厳しい現実と家族の絆の希薄化には目を覆うばかりです。一方で、親子が離れて暮らすことに、双方が前向きな意味とかたちを求めてもいます。別居において、老親と家族がどのような関わりを築いておくことが、いざ介護が必要になった時の良き備えとなるのでしょうか。近隣で暮らす老親との関わり近隣とは半径二キロ程度の距離です。同じ団地や町に住んでいることも多いので、老親の自主性を尊重しつつも、町内の行事に一緒に参加したり、ゴミ捨て場の掃除当番などを手伝うなどの関わりができます。もともと互いに気がねしないように別居していることも考慮すれば、干渉しあうのはよくないのでしょうが、小さなことでも行き来する機会を作っておくことは大切です。見かけはささやかでも交流の機会を作っておけば、「鍋を焦がした跡がある」「不明の請求書が来ている」「最近転倒しやすくなった」などの小さな変化を見逃さなくて済みます。生協の宅配物を共同購入にする、かわいい孫を遊びに行かせるなども一手です。こうした関係を積み上げていくことは努力を要します。しかし、関係が薄れ、理解の溝が深くなってから、いざ介護の関係を築くほうがはるかにエネルギーを必要とします。近距離(中・遠距離)の場合近距離というと、車や公共の交通機関で三十分程度の距離です。すぐに飛んでいくにはちょっとおっくうになる距離ですが、それが程良い自立意識をお互いに生むという長所があります。一方で、子ども家族が複数あると、いざという時にだれが世話をしたり、決断するのかということがあいまいになったり、特定の人に介護が偏りがちになるという短所もあります。取るに足りないようにみえることでも、意外と心の重荷になっている場合もあるので、だれかにまかせきりにしないということが大変賢明なことです 。日常的な見守りができないということは難点ですが、それゆえにご近所や友人、親戚、民生委員さんなどの見守りや助けが必要となります。中・遠距離の場合はなおさら、家族ができることとこうした近隣の方々とのサポートを二段構えで考えておく必要があります。老親の親しいご近所関係があればさりげなく関係を築いておく。地域のイベントに一緒に参加して顔なじみの関係を作る。自治会長さんや地区担当の民生委員さんにあいさつしておく。帰省の際にでも、そんなところに心配りできれば申し分ありません。また、地域を良く知るケアマネジャーとの連携も重要です。海外長期出張時であっても、メールで定期的に様子を知らせて下さるケアマネジャーもいます。そして、住む場所は遠くても心理的な距離が近ければ、電話による安否確認や心のこもった手紙が老親にとって非常に大きな心の支えとなることも覚えておきたいところです。クリスチャンの社会参加とネットワーク別居する老親のために地域の人々にサポートを依頼する前に、自らが地域の「良き隣人」となる活動に参加してみることはいかがでしょうか。経験を積んで学習する機会となり、貴重な愛の実践ともなります。多くの市民が福祉活動に参加している今日において、クリスチャンの積極的な社会参加は意義あるものです。超高齢社会の現実にふれ、地域のニーズを知ることは、教会レベルで考えても欠かせない要素です。そして、こうした活動こそが、地域のクリスチャン同士が協力関係をつくる絶好の機会になるとも捉えたいところです。教派や教団を超えての交わりには、信仰的な成熟が求められますが、マイチャーチ主義やマイ教団主義の垣根を越えたキリストの愛による協働関係は、地域社会の人々への証しになり、新しい宣教のうねりにもなる可能性を秘めています。遠距離介護の場合にも、牧師同士、信徒同士で教派、教団を越えてのネットワークができれば、少数者であるクリスチャンであっても、意外なつながりの発見と励みを得ることができるでしょう。「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます』と言われた」(ヨハネ 19章26、27節)