誌上ミニ講座「地域の高齢者と共に生きる」 第9回 痛みと向き合う
井上貴詞
東京基督教大学助教
十分長生きをしてコロリと逝く、いわゆるPPK(ピンピンコロリ)。信州の小さな町で発祥したPPK運動は全国に広がって、ピンコロ体操やピンコロ地蔵まであります。
長い痛みや苦しみ、家族への負担を経ずして最後を迎えたい。多くの高齢者がそう願いますが、医療技術の進歩は長命だけでなく、長期の療養も伴います。私たちは、主体的にいのちの質や人生の痛みにどう向き合うかを避けて通ることはできません。
緩和ケアにおける全人的痛み
緩和ケアとは、「治癒を目的とした治療に反応しなくなった疾患をもつ患者に対して行われる積極的で全体的な医療ケアである」と定義され、「痛み以外の諸症状のコントロール、心理的な苦痛、社会面の問題、スピリチュアルな問題の解決がもっとも重要な課題となる」とされています(WHО世界保健機関)。緩和ケアは、ガンなどの病気によって終末期を宣告された患者だけでなく、超高齢化社会を生きる私たちの多くが遭遇する人生のエンドステージのケアともいえます。
介護する家族を含めて、できる限りその人にとって良好なクオリティ・オブ・ライフ(いのちや生活の質)を実現させるためには、身体的、心理的、社会的、スピリチュアルな痛みにまで対応する全人的ケアが必要なのです。
スピリチュアルな痛みとは、①人生の意味への問い、②苦痛の意味を問う苦しみ、③死の恐怖、④人生の悔い・罪責感、⑤神の存在への追求などを含めた全存在的苦痛です。無宗教者であっても対峙する人生最大のピンチと痛みであり、究極的な生の意味に向き合って真の神に出会う機会ともなります。スピリチュアリティとは、宗教的霊性よりも広く包括的であり、(超越者に)自分の存在の意味を問い、探求しようとする人間の深い根源的次元をさすものです。
Aさんの痛みとスピリチュアリティ
重篤な全身の筋肉の萎縮と低下をきたす病気を持つAさん(六十三歳)は、妻や嫁ぐ前の娘さんとの生活を大切にしたいという強い思いから、自宅での生活を選択されました。しかし、病気の進行と共に、口から食事を摂ることもできなくなり、人口呼吸器も装着し、痰の吸引も三十分おきに必要な二十四時間の介護となりました。複数の訪問看護とヘルパー事業所、さらに訪問診療、訪問入浴、訪問リハビリ等の多岐にわたるサービスの支援体制を組みました。その確保と調整も困難でしたが、それ以上に援助者側が困惑したのはAさんのスピリチュアルな痛みでした。
「なぜ、この悪魔のような病気になったのか」「(家族の負担を考えると)人口呼吸器をつけてまで、生きる選択をしてよかったのだろうか」「お世話になる方に声を出してありがとうと言えない悔しさともどかしさ」「屍になっている自分の姿の夢を見る」などのAさんの究極の問いや煩悶、痛みに対して私は言葉を失いました。援助者である自分自身のスピリチュアリティが深く鋭くえぐられたのです。
過酷なまでのAさんの生の状況に、自分が揺さぶられ、叩きのめされました。しかし、Aさんはそんな私の気持ちの動揺を察知して「あなたなら大丈夫と考えてあなたに支援をお願いしたのです」という励ましをくださったのです。究極の痛みの中にありながら、Aさんは私のスピリチュアルな痛みに共鳴してくれたのです。
そのとき、私はゲッセマネの園で深く恐れ悲しみもだえられたイエスさまの姿をAさんの中に見る思いでした。そして「共に生きよう」という主の励ましの声を聞き、私自身がささえられるという経験をしました。
新たな関係を回復させる契機としての痛み
Aさんの痛みは除去されたわけではありませんでしたが、そのスピリチュアリティは周囲に共感と力を与えました。Aさんはリスクを承知の上で、「家族で温泉旅行に行きたい」という素朴な願いを、わずかに動く唇で表明されました。その思いは地域の看護師や理学療法士たちの心を揺り動かし、専門家のボランティアという強力なサポートを得て、医療機器を装着したままでの温泉旅行を実現させたのです。
私たちは、死の淵に直面するような痛みを持つ人々との交わりの中で自分の痛みにも向き合わせられます。主は、深い痛みをも、新たな関係と生きる力を回復させる契機としてくださいます。日本に住む多くの人々がかつて経験したことのないほどの大きな痛みに直面している今こそ、人生の究極の意味を教え、共に生きる力を与えてくださる主に信頼していきたいと思います。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」
(詩篇二三篇四節)