遺されたメッセージ
遠藤嘉信師を偲んで 最後まで語り続けて
並木 照子
日本同盟基督教団 和泉福音教会
敬愛する遠藤嘉信先生を主権者なる主が御摂理のうちに召され、今なお、悲しみの中にあリますが、拙い筆をもって先生を偲び、先生がどのように私の信仰を導いてくださったかを書かせていただきます。
私が申すまでもなく先生は稀に見る名説教者であり、優れた聖書学者であられたと思っております。ぬるま湯の中に浸っていたような私の魂を、みことばによってもう一度覚醒させ、神様へと近づかせてくださいました。教会に対しても、つかず離れずのような状態でつながっていた、誠に不届き千万な信者であったことを悔い改めへと導いてくださいました。
三、四年前のことでしょうか、或聖日の説教で、「私たちはイエス様についてどれほど知っているだろうか」との先生のことばにハッとさせられたことがあります。それはそのまま私への問いかけでもありました。その時がひとつの転機となって以来、先生の説教をむさぼるように聞きました。先生の説教では神様への信頼、そして神が聖なるお方であること。どうあっても避けて通ることのできない問題として罪のことを強調されました。罪を悔い改め神様との個人的な交わりが確立されない限り、祝福を受けるに至らないことを繰り返し説かれました。
そして、敬遠されがちなレビ記でさえ先生の手にかかると、身近な書として感じられる様になり、現代に生きる私達にそのまま適用されるみことばとして解き明かして下さいました。
レビ記をこのように語ってくださるのだと舌を巻く思いで聞いたことです。
また、一連のヤコブ物語の中の創世記二八章一六節で、ヤコブが旅の途中、神の特別なお取り扱いを受け、神の御臨在を覚えて「まことに主がここにおられるのに私はそれを知らなかった」と言ったみことばにふれた時、これこそ私へのご忠告だと、震えるような思いでした。礼拝中、涙があふれてどうしようもなかったことを覚えております。
ご病状が進む中で、先生は昨年の八月から創世記一章から語り始められました。ご自身これはひとつのチャレンジだとおっしゃっていました。第一回目の説教を「初めに神が天と地を創造した」と進められる内に、このような創世記を聞いたことがないという思いで、新鮮な驚きと感動を覚え、次々と新しい展開をもって現代の私たちに適用できるみことばの解き明かしに次回が待たれる思いでした。
「初めに神が……」の初めが世界の事始の始めではなく、神の壮大な御計画に基づく、私たちに対する神の御業の始めであることがわかった時の嬉しかったこと、何度も呼んだはずの創世記ですが、字面ばかり追ってみことばの奥義を読みとれずにいた自分を恥ずかしく思いました。二章一、三節で聖日について語られたその日の説教には、それはもうこたえました。イザヤ書五八章一三、一四節のみことばは私の心にぐさりと刺さりました。
私は聖日についてこれほど大切に考えたことがあるだあろうか、形式的ではなかっただろうかと神様にお詫びを祈りました。先生は苦しい病との闘いの中で、どうしても三章までの著書をあとがきを共に完成させたいとの願いのもとに、最後にはわずかに動かせる指一本でマウスを動かして操作しながらついに達成されました。
創世記三章一五節に述べられている救い主キリストを指し示しながらご使命を全うされたのだと思っております。主が与え、主が取られた遠藤先生。お名前のとおり主が嘉せられた信仰の貫きとおされた遠藤先生。世の旅路の終りも間近い者をこのようなすばらしい先生に出会わせてくださった神様の御恩寵に感謝し主の御名を崇めます。