霊的読書のススメ 霊的に本を読むとは(後半)
野田 秀
読書と聖書の関係
では、一般の書物にふれることが、聖書とどんな関係にあるのだろうか。二つの面があると思う。クリスチャンは、
▽一般の本に親しむことによって、聖書に対する確信を増す。
▽また、聖書をよく読むことによって、健全で有益な読書のカギを得る。
これが、「霊的に本を読む」ことである。つまり、霊的な本の読み方とは、結局、聖書とどう向き合うかにあると思う。
- 聖書の裏づけとなる読書
私の読書の喜びのはじめは、小学二年生の時に母が買ってくれた大型で分厚い「グリム童話」にある(一九四〇年ごろ)。それは、「白雪姫」が「雪子姫」となっているような古い代物である。子ども向けに翻案されていないので、血が流れ、人が殺され、継母にいじめられるといった話が次々に出てくるのである。
私は来る日も来る日もそれを読んだ。そして、あらゆることに目隠しをされていたような時代の少年が何となく感じ取ったのは、大人の世界、人間の世界のおぞましさのようなものであった。
青年期にクリスチャンになり、旧約聖書を読んだ時、そこに同じものを発見した。どろどろとした罪の世界である。しかし、聖書は「グリム童話」と同じではなかった。そこには神がおられたからである。
私のこの経験は、一般の本を読むことによって聖書への確信を増すことの例にならないだろうか。聖書は人間の本質を明らかにしているが、クリスチャンでない人の書いたものによっても、私たちは聖書の真理の裏づけを得ることができる。
時には、福音をはばむものの正体に気づかされることもある。この世のどうしようもない現実を知り、聖書の語るメッセージの必要をいっそう強く感じさせられることもあるからである。
- 聖書を裏づけにした読書
だからといって、クリスチャンが、やみくもに、手当たり次第に読書をすればよいわけではない。本の内容によっては、聖書や神を疑わせ、誘惑となるものもあるし、時間を一般の書物に使い過ぎることも考えものである。その落とし穴に落ち込まないで、健全な読書を続けるための最高の道は、ふだんから聖書をよく読んでおくことである。
聖書がバックボーンとなっていれば、文章の内容やメッセージに見分けがつき、読む必要があるかないか、これ以上読むべきかどうかといったことについて、自然に信仰的な判断がつくようになる。だから、霊的に本を読むために、私たちは、神のことばである聖書に親しむことを怠ってはならない。みことばによって、私たちは「真にすぐれたものを見分ける」(ピリピ一・一〇)力を与えられるからである。
聖書をより深く理解するためにもっと本を読み、また、聖書をもっと読むことによって健全な読書に至るというのが、クリスチャンにとっての読書と聖書の関係ではないだろうか。