駆出しおとんの「親父修行」 第2回 おれ、親父になる

大嶋重徳
KGK(キリスト者学生会)主事

家庭礼拝―。ノンクリスチャンの親父と、祖父母同居の実家では、ほとんどやった記憶がない。
ある日、オカンが教会で「家庭礼拝っちゅうもんをやったらええらしい」と聞いてきて、急遽始まったことがある。
思春期に入ったボクと姉妹、おじいちゃんが亡くなって一人ぼっちの時間が多くなったおばあちゃんも混ざって、家族で話をするのもいいだろうと、親父も参加。
順番に聖書朗読をした後に、親父が「ここはどういう意味や?」と話を切り出して、クリスチャンたちがみんなで「ようわからんなあ」と答えて終わっていく。十代まっさかりのボクらきょうだいにとって、急に家族が顔を合わせ、聖書を読み出すというのは、何とも言えないこそばゆい感覚。「うーん微妙、この空気……。はよ終わらんかな」と思っていたら、いつの間にかやめてしまっていた。「家庭礼拝」という響きには、ほろ苦い記憶だけが残った。

*    *    *

キリスト者学生会(KGK)で出会ったボクら夫婦は、結婚後にKGK主催のファミリーキャンプに参加した。家庭礼拝に熱い情熱を持っている講師。その熱さにすっかり影響を受けた妻。「家庭礼拝、やりたいねー」と小声で同意を求めてくる。よみがえる苦い記憶。
しかし結婚したばかりのボクは、信仰深い夫のイメージをキープしなければと思い、「もちろん、オレもやりたいよ」と慌てて答える。そして、妻に隠れてこっそりKGKの先輩主事に話を聞きに行った。
「あれ(家庭礼拝)は、本当に続けられるものですか」
子どものころの結局続かない惨敗の記憶が思い出される。「ああ、今週もほとんどやれなかった」と、自責の念に苛まされる週末を過ごしたくはない。すると、ナイスアドバイスをしてもらった。「真面目にやると続かないよ。コツはうんと簡単にシンプルに。そして短く」
不真面目な自分自身に聞こえてきた良き知らせ。
そして、夫婦で始めた家庭礼拝の場所は布団の中。寝る準備は万全で、いつもの場所においてある聖書を読んで祈る。そんな簡単なところからスタートした。愛し合っている新婚には乗り越えやすい壁。
やがて、子どもが生まれた。どうするわが家の家庭礼拝。ついに挫折? だって子どもは早く寝る。育児に疲れ果てた妻も早く寝る。ボクはそれを起こさないように、そっと寝る。だがやがて、霊的にかっさかさにかわいていく妻。
「最近、家庭礼拝やっていないよね。やっぱりやろうよ」
そして霊的、信仰的なリーダーシップを求めてきた。
しかし、こっちもこっちで仕事がガンガン忙しく、家に帰ったらもはや朦朧としている頭。
すると、再び行われたKGKのファミリーキャンプで、「夫が家庭礼拝のリーダーシップを取ってくれないんです。やっぱり夫が霊的なリーダーになるべきでしょ。ねえ、先生」という質問が。おおっ、わが家と同じパターン! 講師は何て答えるのか。身を乗り出す妻、身構えるボク。
すると、「日本では、忙しいご主人が毎晩の家庭礼拝を仕切るのは難しいですよ。ご主人は『家庭礼拝は妻に任せた』というリーダーシップを取ればいい」。
おおおおおっ、斬新な快答。即、採用。
それから、ボクの帰りが遅い日は、妻が子どもたちと布団の上で簡単な振り付き賛美をして、暗唱聖句をして、「今日うれしかったこと、お祈りしてほしいこと」を順番に言い、家庭礼拝をするようになった。毎晩「お父さんのお仕事が守られるように」と祈りをささげてくれる子どもたち。家にいないボクの存在感を作ってくれる妻。もちろん、家にいる時はボクも参加する。子どもたちのうれしかったこと、お祈りしてほしいことを聞きながら、それを祈れる幸せ。
昨年、オーストラリアに一年間単身留学した。あまりにも遠い距離。しかし、毎晩スカイプで家庭礼拝をした。
孤独で寂しいボクに「お父さん、美味しそうでしょ」とさばの味噌煮を見せてくる娘。お風呂上りに、裸でカメラ前を駆け抜けていく息子。「家庭礼拝するよー」とパソコン画面越しに声をかけると、「はーい」という返事が届く。
変わらずに聞こえてくるうれしかったことと、お祈りしてほしいこと。そして祈りあえる時間。もう振り付き賛美と暗唱聖句はしなくなったけど、「お父さんの今の仕事、大変な状況なんだよね。お祈りしてくれる?」と言うと、真剣に祈ってくれる子どもたち。霊的に満たされる妻。

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最近の戦いは、説教準備でテンパっている真っ最中に、息子が「お父さん、家庭礼拝しよ」と呼びに来る時。今いいところなんだけど……と思いながらも、パソコンのフタを閉め、(だって、家庭礼拝やんなくて、何が説教準備だよ)そんなひとりごとを言いながら、リビングに向かう。