高校生のためのエッセイ
永遠志向 第7回 囚われているぼくたち

荒井恵理也
高校生聖書伝道協会(hi-b.a.)スタッフ

 ぼくの好きな本で『きょうの祈り』があります。毎日の祈りが一頁にまとめられていて、洗練された日本語が祈りを深めています。その中から、ある日の祈りのことばを引用します。

 「この新しい月の第一頁を開けるにあたり、私は心します。この月が決して私にとって、良いことばかりの月でありませんように、と。私は、なお未熟です。(中略)神の国に入る者の浴びるべき艱難の洗礼に足らず、主の弟子として仰ぐべき苦杯もわずかしか重ねておりません。私には訓練が必要です。もっと、自分の弱さを知ることが必要です。この肉に悲鳴をあげさせなければなりません。主よ。この月を、私にとってうれしくないものとしてくださってかまいません。」(6月1日)

 ぼくには考えもつかない祈りでした。自分の祈りといえば、祝福してください、恵みを与えてください、苦しみをなくしてくださいといったことばかり。別にそれが禁じられているわけではないのですが、なんだか恥ずかしい気持ちになりました。

 人間本来の自然な欲求として、おいしいものを食べたいし、きれいな洋服を着たいし、高級車にもあこがれ、マイホームを夢見てもよいわけですが、それらに執着し、囚われて生きることは、したくありません。

 お金があれば嬉しいのは当然ですが、それで幸せになるわけでも、安心するわけでもありません。あればいいとは思いますが、ないからといって不幸でもなく、不安になるわけでもないのです。お金や物はキリストをとおして与えられた神の恵みなので、感謝して受け取りますが、それらに支配され囚われた生き方をしてはいけません。この祈りを読んで、お金や物による祝福を求めてばかりいることに気がつかされました。

 永遠といういのちをもつぼくたちは、永遠の豊かさを知りながらこの世に生き、なおかつこの地上にあって永遠の前味を味わっています。その永遠の前味の旨味は、この世の華やかさにではなく、むしろ艱難の中にあるのでしょう。今回紹介した祈りは難しいけれども、祈ってみれば、永遠という視座が与えられるかもしれません。