21世紀の伝道を考える 12 日本のゴスペルのこれから?(2)

ラニー・ラッカー
ラッカー・ゴスペル・ミニストリー 主宰

 ゴスペルに対する反応

 日本でゴスペル・ミュージックに対する反応にはいくつかのタイプがありますが、それはイエスが語られた種まきのたとえ(マタイ一三章)に考えることができるでしょう。

 私たちのセミナーに来たある人は、ゴスペル・ミュージックが単なる流行ではないことに気づいたとき、失望したといいます。その歌詞を歌うことに抵抗を感じたというのです(彼は信仰をもっていませんでした)。そして結局いつかゴスペルをやめてしまいました。彼の心にまかれた福音の種をサタンが摘んでしまったのでしょう。道ばたにまかれた種が、すぐに鳥に食べられてしまったように(四節)。

 またあるタイプは、ゴスペルの感情的な側面ばかりにとらえられ、クリスチャンになる意思を表す人です。こう考えるのです。「こんな喜びがいつまでも続いてほしい、福音を受け入れるならば、きっと毎日が楽しくなるにちがいない。」そして教会に通い、洗礼を受けます。しかし何か試みがあるとすぐに、信仰を捨ててしまうのです。これは土の薄い岩地に落ち、土が深くないのですぐに芽を出しますが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった種のようではないでしょうか。(五―六節)(私は幸い、このタイプの人が、神さま、そして教会とより成熟した関係にまで成長するのを見てきました。)

 第三は、イエスを救い主として受け入れることを拒む人です。クリスチャンになることなく長い期間、ゴスペルを歌い続けます。ストレスの発散、元気を得るために、あくまで音楽の一スタイルとして愛好するのです。彼らのうちにまかれる福音の種は死んでしまうのです。(七節)私は、こうした人たちの目と心が開かれるまで、祈り続けていきたいと思っています。

 最後は、肥沃な地に落ちた種にたとえることができるでしょう。世界中の人が、ゴスペル・ミュージックを通してキリストのことを知るようになります。彼らはそのスタイルを学び、やがて福音宣教のための重要なツールとして用いながら、後の時代のためにその光をともし続けていくのです。そしてこの日本で豊かな収穫を刈り取る「Gospel Missionaries(ゴスペル伝道者)」となることでしょう。(八節)

 日本語のゴスペル

 礼拝プログラムでゴスペルを歌うという新しい考え方は、伝統的な礼拝賛美のスタイルを守ろうとする人には、決して受け入れられませんでした。これはごく自然なことです。ゴスペルの多くは、英語で歌われてきたので、英語を母国語としない人が英語で歌うのは大変です。しかし日本には日本語でブラック・ゴスペルのスタイルで曲を書くことのできるソングライターが起こされてきています。とても勇気づけられることです。日本語の歌詞は、きっと日本人の心により深く届くのではないでしょうか。

 これは、ブラック・ゴスペルの曲を日本語にそのまま訳することとは違います。英語の原曲を日本語にするには、両言語のビート数が異なるために、大半の場合メロディとリズムまで変えなければなりません。ですから日本人がオリジナル曲を書くのは最善の方法といえるでしょう。

 教会の役割

 私は、教会の果たすべき役目とは、福音を伝えるためにあらゆることをすることだと思います。

 近年、日本の教会の多くは、ますますノンクリスチャンを受け入れるようになってきていますが、彼らへの伝道ツールとして、ゴスペル・ミュージックが用いられているのです。ある教会では、伝統的な礼拝プログラムと夕方に定期的にゴスペルを賛美する時間を持っています。将来、教会で伝統的な聖歌隊とゴスペル・クワイアの両方を目にするかもしれません。

 ゴスペルを通して弟子を育てる

 日本では、ワークショップに人気がありますが、最近ではクワイアの指導者や奏楽者を育てようとする動きも起こされています。またブラック・ゴスペルのスタイルでピアノを弾ける人も必要とされはじめ、徐々にですが、教会の奏楽者を対象にそうしたピアノのセミナーも行われるようになりました。また多くの人がクワイアやボーカルのセミナーなどに気軽に参加できるようになっています。こうしたことは、とても励ましになるのではないでしょうか。

 神さまがゴスペル・ミュージックを、御自身の栄光のためにますます用いられますように。