21世紀の伝道を考える 3 路上生活の兄弟たちとの交わり(1)
金 小益
日本長老教会 千住キリスト教会 牧師
今から5年前、千住新橋の近くにあるマンションの一室で教会の開拓が始まりました。
国籍を超え、「ともに生きる」ことのすばらしさを実行したいとの願いをもって日本人、韓国人の合同礼拝がスタートしました。当時、橋の下で4グループ、約20名の方が暮らしていました。ある日曜日、台風のなか彼らにおにぎりを届けたことがその交わりの始まりです。現在は、2箇所で礼拝を行っていますが、千住新橋には200名前後の方々が集まっています。週1回、そして年間50回、ともに礼拝し、また給食を行っています。
この交わりの始めから、今に至るまで、というより私たちが、人々とどのように関わっていくべきかという点でいつも変わらずに考えていること、それは一人一人が神様にとってかけがえのない大切な存在であるということです。私たちはそのすばらしい神の愛の運び屋になれたらと思っています。私たちは与える人、あなたは受ける人というのではなく、神の愛をともに分かち合いたいと思うのです。
「貧しさ」とは、物がないということだけではありません。病気や物質的貧困よりもみじめなのは、貧しさゆえに人から軽蔑され、その存在さえも忘れられ、自分は誰からも必要とされていないと思うことです。たとえ裕福であっても愛に飢えている人はたくさんいます。空腹による飢えはパンで解決できますが、愛の飢えを満たすのは難しいのです。
私たちは、遠くにいる貧しい人たちを思いやることは容易です。しかし困難なのは、自分のすぐ近くにいる人を思いやることです。愛はまず身近なところから始めていかなくてはなりません。何も大きなことをする必要はないのです。それはだれでもできることです。そして大切なことは、自分がどれだけのことを成し遂げたかではなくて、そこにどれだけの愛を込めたかということではないでしょうか。ある兄弟がこんなことを話して下さいました。
「僕は、一食の食物のためにここに来るのではありません。自分たちの存在を意識して下さり、そして継続して来て下さることがうれしくてここに来ているのです。」
彼らの飢えはパンだけのものではなく、人から愛され、受け入れられることの飢えであることを感じます。
「ともに生きる」ということ、すなわち時間的、物質的など様々の犠牲を惜しまず、そして彼らの痛みを感じつつ、伝え、与えるとき、愛も伝わり、分かち合うことができるのではないでしょうか。
こうした一人一人を大切にする交わりの具体的な活動には、たとえば散髪があります。また救急車を呼んで、病気になった人を入院させることもあります。そしてその病院を訪問します。退院時には、区の社会福祉事務所に一緒に行き、生活保護の申請を行います。その許可がおりると今度は住居探しです。私たちが保証人となって、家賃が5万円前後の家を探すのですが、なかなか見つかりません。仮に見つかったとしても、貸してくださる大家さんが非常に少ないのです。ふとん類一式と生活に必要な物資も支給されますが、細々(こまごま)とした物は教会で準備することもあります。
あるとき交番からの呼び出しがありました。おにぎり一つを万引して捕まり、「知人はいないのか」との質問に私の名前を答えたとのこと。彼と一緒にそのお店に行き謝り、改めてお弁当を渡したこともありました。私たちは、各人の必要に応えて活動していきたいと願っています。
ところで私たちは牧会も、まったく同じ気持ちで取り組んでいます。そのスピリットは何も変わりません。たまたま教会の近くにいた隣人が路上生活の兄弟たちであったということであり、自然に始まったことなのです。また様々な条件が整っていたからはじめたのでもありません。もしそれを待っていたとしたら、いつまでたってもできないのではないでしょうか。信仰をもって行動に出るとき、主が助け、導いて下さるということを体験する毎日です。
人の心を開くのは、愛の行為以外にありません。この働きを通して神の愛を証ししていきたいと願っています。そして今、兄弟の中から救われる魂が起こされていることは大きな感謝です。そして彼らから奉仕者が起こされ、信仰を求めようとする姿勢を見るとき、それは私たちにとって大きな励みとなっています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4) (つづく)