21世紀の教会のために 第1回 個人的(personal)な信仰と個人主義的(individualistic)な信仰

藤原淳賀
聖学院大学総合研究所教授 日本バプテスト連盟恵約宣教伝道所牧師

 高校三年生になったばかりの十七歳の春、私は初めて教会を訪れた。岡山は西大寺という町であった。一九八二年四月二十三日のことである。その日を今でも覚えていられるのは、それが牧師先生の誕生日であったからである。その日生まれて初めて福音を聞いた。このキリスト教と、そしてこの牧師先生との出会いが私の人生を変えることになった。その年の秋、私はキリスト者として信仰を告白し、翌年のイースターに洗礼を受けるに至った。
現在、私は牧師であり神学者である。このアイデンティティーは神学校に入る時から変わっていない。教会は私の神学にとって大変に重要なものである。単に個人的嗜好ではない。神学は本来、教会に仕えるために生まれ、教会から離れて存在するものではなかった。近代以降、教会から離れた神学的営みが生まれてきた。それらも神の国に益するものである限り、二次的に重要である。しかし神学は、第一義的に神の国と教会に仕えるものである。私は、この連載を通して教会と牧師先生方に仕えたいと願っている。教会は、神の国と同じではない(教会 神の国)。十字軍のような極端な例を出すまでもなく、教会は神の国のあり方に適わないことをしばしば行ってきたし、残念ながら今でもそうである。教会における破壊的な話を聞くと、その度に心が痛む。また神の働きは、当然のことながら教会の外にもある。主の業はあらゆるところで現れている。
しかし神の業をもっともよく見極めることができるのは教会である。教会は神の羊たちの群れであり、自らの牧者の声と業を見出すことができる。世界広しといえども、教会に匹敵するものはほかにない。いかに小さく弱くとも、教会は自らの羊飼いを知っており応答する。「キリストの体」「花嫁」といった特別なモチーフをもって、新約聖書は教会を表している。そして牧師は、自らキリストの羊でありつつ、群れを導く重責を与えられている。それゆえ自らが養われ、整えられ、励まされ、また鍛えられなければならない。
私は教会を大切に思っている。だが、周囲の教会や教会論に満足しているわけではない。教会を開拓し、また教会論の研究を続けているのは、召しが第一の理由であるが、実はこれも一因である。個人的にはイングランド国教会には恩師や多くの友人がいるし、英国留学中にはその伝統や遺産からは多くの益を受けた。しかし英国やドイツなどに見られる国教会には多くの根本的問題がある。この連載の中でも触れていくが、国家と一つとなった教会は、国の罪を批判する預言者としてのスタンスを失うのである。また幼児洗礼の影響もあり、(常にではないが)個人的(personal)な信仰が明確になりにくい傾向もある。
しかし一方で、福音派の教会理解にも問題を感じている。個人的信仰、一度きりの回心の経験が過度に強調されるとき、それはしばしば個人主義的(individualistic)な信仰となっている傾向がある。あるいはその逆に、リーダーに従順なカルト集団的傾向を持つこともある。個人主義的な独りよがりの信仰でなく、またリーダーへの理不尽な従順が求められる集団主義でもなく、人格的に神に出会い、継続的に整えられ変えられた、成熟した信仰者たちの温かい群れ、それがわれわれの求める教会である。個人的信仰とは個人主義的な信仰ではなく、人格的な神との出会いを経験した人たちが、群れの中で共に養われていく信仰である。
洗礼を受けると同時に私は大学進学のため上京した。教会に、家内が大学三年の時に友人に誘われて来るようになった。彼女は家族の絆の強い下町に育ち、両親から学生運動と宗教にだけは近づいてはいけないと言われていたという。だが、福音にひかれ、信仰を告白し、毎週教会に通うようになる。しばらくして家内の両親は強く迫った。「キリストを取るか、家族を取るか。キリストを取るなら親でもなければ子でもない。家を出ていくように」。よほどの危機感を持っていたのであろう。しかし家内は、自分のためにいのちを捧げられたイエス様を捨てることはできないと、文字通り布団と服だけを持って、育ててくれた両親のもとを去った。大変につらい経験だった。
古きかけがえのない大切な共同体を信仰のゆえに去ったとき、キリストの体なる新しき共同体は信仰者を受け止めなければならない。教会が個人主義者の集まりであるとき、若き信仰者は孤独を味わう。
教会は単なる礼拝共同体ではない。礼拝がその中心にあるが、生きた信仰者の群れである。そこでは、キリストを中心とした人々の生活が営まれ、信仰者を受け止め、支え、育んでいく新しい共同体となるのである。