21世紀の教会のために 第4回 ケープタウン2010を通して考えたこと (2)

藤原淳賀
聖学院大学総合研究所教授 日本バプテスト連盟恵約宣教伝道所牧師

 前回に引き続き、昨年十月の「ケープタウン2010(第三回ローザンヌ世界宣教会議)」出席を通して考えたことを分かち合いたい。

教会の一致 

毎朝行われた聖書の学びはエペソ書だった。教会の一致の問題が扱われた。WCC(世界教会協議会)代表として来られていた方は、開会式の挨拶で「ローザンヌとジュネーブ(WCCの本拠地)は遠くないし、遠くあるべきではない」と語った。
また教義問題を扱う分科会で、WCCのオブザーバーとして来ている東方正教会の聖職者は、「議論を聞いていて自分はほとんど違和感がない。自分はなぜオブザーバーとしてここにいるのだろうかと思った。次回は参加者として来たい」と語った。私は直接会うことはなかったが、バチカンからの使者があったことも後で知った。
「世は、教会のクレディビリティー(信頼性)を問うている」との重要な指摘が全体会議の中でなされた。本当に愛をもって互いを建て上げているのか、教会の一致があるのか、教会を信頼してよいのか、それが問われている。この問いかけに大きな賛同の声があった。
これだけの規模で、これだけのバラエティーをもって行われるキリスト教の会議が世界で他にあるだろうか。(福音的な)教会が一つ声を世に対して発するということ。ローザンヌ会議が継続される必要を私はここにも見出すものである。

アフリカの教会の成長

ヨーロッパの教会の停滞・キリスト教人口の減少は深刻である。ヨーロッパの教会に将来はあるのかというセミナーも開かれていた。しばらく前からいわゆるキリスト教国、西洋諸国でのキリスト教人口は減りつつある。その一方で、アジア、南アメリカでの宣教が進んでいる。イスラム教徒への宣教は決して容易ではないが、確実に進んでいた。
今回特に驚いたのは、アフリカの教会の成長である。アフリカの教会はこの百年の宣教で、宣教地の教会から、宣教師を送り出す教会へと成長していた。数の上でも教会が成長を遂げているが、それ以上に素晴らしいのは、優秀で知的で円熟しダイナミックなリーダーシップのあるアフリカ人の指導者が育っていることである。そのような方々に今回、何人も会った。確かにプロスパリティー・ゴスペル(クリスチャンになれば成功する)といった問題はアフリカでもあるようである。しかし、どこに出しても恥ずかしくないリーダーがアフリカに育っていた。
翻って思うのは日本である。プロテスタント宣教開始から百五十余年。多くの人材とお金とエネルギーが投入されて来た。そしてその結果が、未だ一%のキリスト教人口である。もちろん宣教活動は神の主権と聖霊の働きの中で行われる。しかし世界規模で見て「おかしい」と感じるほどの停滞であると今回初めて感じた。リーダーの養成に関してはどうだろうか。日本の教会が、世界宣教の流れからずいぶん取り残されているように感じたのは私だけではないであろう。
今回、出て行って福音を伝えることの大切さを痛感した。世界宣教といえば大仰な響きがあるかもしれない。しかし、できるところからできる人たちと一緒に、できる規模でやれればよいと思っている。その送り出すことが、ひいては日本の教会に祝福をもたらすことになるであろう。
それは宣教が神の強烈な御心だからである。神はご自身と一つ思いになっている者を祝される。神の御思いの流れにわれわれの心と行動が沿っていなければならない。小さくてもいい。わずかでもいい。自分の規模で神の御心(み こころ)に沿っていなければならない。

おわりに

ケープタウン2010は、その規模においてもプロフェッショナリズムにおいても質が大変高かった。
しかし私にとっていちばん大きな祝福は、参加者のうちに自分と同じものを感じたという点であった。いわば「初めて会った、世界に散らばっている遠い親戚一同の大集会」という感を持った。「何か似ている。確かに自分と同じ一族だ」「やっぱりそういう経験をして、そういうふうに応答したのか。今まで会ったこともなかったけれど、そこで父の声を聞いて、父の御わざに参与しているのか」。そういう感覚である。何か響く同じものを感じた。この人たちとなら一緒にやっていけるんじゃないか、そういうものを感じた。神の民の一員として、共に二十一世紀の前半を走るべくバトンを託されていることを思わされた。