CD Review ◆ CD評 CD「聴く聖書- 旧約聖書-Vol.1」(創世記~ルツ記)
野田秀
東京フリー・メソジスト教会・桜ヶ丘キリスト教会協力牧師
耳で、心で、たましいで神のことばを聴く
「私たちの教会の礼拝堂の壁に『静聴』と彫られた壁掛けがかかっている。それは礼拝において、静かに神の語りかけに耳を傾けることを促している。「聴く」は、厳密には「聞く」ではない。心を集中し、理解しようとして耳をそばだてることである。漫然と、耳に入ってくる音や声を何となく聞くのではなく、意思的に、あるいは意識して聴くことである。
「聴く聖書」は聴くものであり、聞くものではない。
実際、集中して聴こうとしなければ、聖書が読み上げられていても、朗読者の声が前へ進むばかりであまり残るものがないだろう。つまり、何かをしながらこれを聴くことは、これになじまないということである。もちろん、何かをしながら聞くことが、まったく無意味であるとは言えないが、「聴く聖書」を聴くには、集中することが必要になる。
聖書を読むことと比べてみよう。
目で字を追う「読む」という行為は、自然に、無意識のうちにも、読み返したり、自由に行を飛ばしたりしながらのことである。疑問があれば、立ち止まることもできる。
しかし、「聴く聖書」の場合は、意図してCDをかけ直さない限り、どんどん先へ進むのである。だから、理解しようと思えば、耳と心を集中しなければ、それは難しいことになる。その点で、これを聴くには、聖書を読むこととも、音楽を聴くこととも違った集中心が必要になる。
この、集中して聴くことをさせることこそ、「聴く聖書」のもたらす最も大きい幸いではないだろうか。忙しい人が、それでも一日のうちのどこかで、心を集中して神のことばに耳を傾けるとすれば、それは、霊性の向上に大いに役立つに違いない。
「聴く聖書」は、耳で、心で、たましいで神のことばを聴く「静聴の時」なのである。本としての聖書のなかった時代は、神のことばは読み上げられていた。「聴く聖書」は、その再現であるかもしれない。