DVD 試写室◆ DVD評 135 「奇跡の丘」
大橋由享
友愛グループ イエス・キリスト ファミリー教会牧師
独特の世界観で描く
イエスパゾリーニの「奇跡の丘」
まっすぐにこちらを見つめる少女の顔のアップ。画面が切り替わると、その視線を受け止め、見つめ返す男の顔のアップ。放心したような表情。再びマリヤのアップ。負い目を感じているように、すっと視線を下にそらす。するとカメラは、石造りの家の前に立つ少女の全身を映し出す。そのおなかは、妊娠のためせりだしている。そう。この二人、マリヤとヨセフなのだ。ヨセフはクルリと背を向け、埃っぽい道を去っていく。おぼつかない足取り、ふらつく上半身は、彼が受けたショックを物語る。そしてまた、それを悲しげに見送るマリヤのアップ。頬を伝わる一筋の涙。この間、ひとことの台詞もないのだ。
パゾリーニ監督の映画『奇跡の丘』は、こんなふうに唐突に始まる。この見事な冒頭シーンから、独特の世界に引き込まれる方も多いだろう。
1964年の作というから古い作品だ。もちろんモノクロ。しかし、色彩のあふれた世界に住む私たちの目には新鮮に映る。また、モノクロ画面は、パレスチナの白茶けた大地や乾燥した空気、強烈な太陽の照り返しを、かえってリアルに描き出す。
この作品の特筆すべき点は、余計な演出や過剰な演技を、極限までそぎ落としていることだろう。それは、台詞のすべてを、「マタイの福音書」から取っていることによると思われる。もともと福音書の文体は、情景描写、心理描写を抑え、事実を淡々と記録するもの。その福音書に忠実に作ろうとするならば、このような形になるはずだ。
また、冒頭のシーンにもあったように、顔のアップが多用されているのも、この作品の特徴である。それも、メインキャストだけではなく、群集や兵士、子どもたちに至るまで、順繰りに、一つひとつ、これでもかというぐらいに、アップで映し出していく。それは、どこにでもいるような、純朴な、泥臭い人たちだ。このことにより、民衆の中で生きたイエスの姿が浮き彫りにされていく。
ちなみに、ユダヤ人風の髭を生やした人物がほとんど出てこないのには、少々びっくり。皆、イタリア人のままの顔である。
主人公のイエスは線が細い。しかし、パゾリーニ監督が、「『私が地上に平和を投じるために来たなどと思うな。平和ではなく、剣を投じるためにきたのだ』。わたしがこのフィルムを思いつくにいたった鍵とは、実はこの言葉でした」と語ったように(四方田犬彦氏による作品解説より)、時として激しさを見せる。パリサイ人を非難するシーンでは、激昂し、声を荒げる。群集は、それを聴くために、当局の制止を振り切るようにして、続々とイエスのもとに集まってくる。革命家のようなイエスの姿だ。
また、「山上の説教」のシーンは、どの映画とも異なる。イエスは、激しい口調と、びっくりするほどのスピードで、畳み込むように語るのだ。
『奇跡の丘』は、イエス・キリストに対する、私たちのイメージを覆すような作品であると言えるだろう。イエスを描いた他の作品と、見比べてみてはいかがだろうか。