NEWS VIEWS FACES 2006年3月「ナルニア国物語」全国上映
礒川道夫
チーフプロデューサー
私たちはこの映画で何を伝えるのか(2)
まったく悲惨な事件が続く。広島や栃木で小学生の子供が殺され、また京都でも塾で少女が殺された。以前なら1年に1回起こるか、起こらないかの事件が、毎週のように起こっていく。これを「大変な時代になった」「終末だね」とキリスト者は、ただ傍観していていいのだろうか。これを書いているのは、クリスマスの時期。教会や巷ではクリスマスのお祝いがなされているが、事件が起こった地域ではそれどころではないだろう。
この「ナルニア国物語」の世界は、「白い魔女」に支配され、一年中が冬になっている。しかしクリスマスはまったく来ない。「魔女」と聞いて連想する映画・作品といえば「ハリーポッター」だろう。世界中の人々が、この作品を読んで、そして映画館に足を運んでいる。そこにはキリストの香りはない。しかもキリスト者もその子供たちさえもこの作品に夢中になってはいることはないか。
神はそれを喜んでおられるだろうか。この時期に「ナルニア国物語」が映画化され、もう一度世界中で注目を浴びるように願って、門のかたわら、道のかたわらで、大声で呼ばわっているのは、私どもが信じるイエスなのかもしれない。(箴言12-1)
この「ナルニア国物語」には、キリスト教用語は出てこない。しかし、子供たちや大人達がこの物語に夢中になって進んでいくと、あちらこちらにキリストの香りが漂っていることに気づかされる。
お肉が嫌いな子供に、母親が食べやすいようにするために、子供が好きな料理にまぜこぜにして、気がついたら子供がおいしく食べてしまっているようなものである。
たとえば、4人の子供たちの一人、エドマンドは、魔法のプリンを食べてしまい、魔女の言いなりになってしまう。あのエバの誘惑を連想する。そして、アスランが石舞台で殺されていくシーンは、ゲツセマネの園から十字架のイエス、そうあの映画「パッション」の意味、「犠牲の愛」、「身代わりの死」の意味が表されている。
この「ナルニア国物語」という料理を子供たちやお友達においしく食べてもらえるかは、わたしたちが、まず誘うかどうかにかかっている。