Opus Dei オペラな日々 最終回 自分を与えるアンサンブル

稲垣俊也
オペラ歌手(二期会会員)、バプテスト連盟音楽伝道者

稲垣俊也 プロのオペラ歌手である私は、少年時代より音楽に親しみ、音楽に精通していました……と言いたいところですが、私の青春時代は音楽とはまったく縁のない生活、剣道に情熱を燃やす日々でした。

 剣道から多くのことを学びましたが、今なお鮮明に記憶しているひとつに「残心(ざんしん)」という言葉があります。

 「残心」とは読んで字のごとくです。相手に“面”を打ち込んだら“面を君に打ち込んだぞ”という“気”すなわち“心”を残さなければいけないということです。

 力にまかせて相手を叩いたりしても、たまたま正確な部位にあたったとしても“一本”にはなりません。相手に“気”を打ち込み、十二分に相手に伝えてこそ“一本”であるということです。

  “剣術”はもともと相手を斬るという殺人行為の技術であったのですが、不思議なことに“剣道”では相手を斬ってはいけないのです。むしろ相手に“気”を打ち込み、相手を生かさなければなりません。

 互いに“気”を打ち込み合うことで成長していくことが、剣を通した人の“道”、剣道の真骨頂ではないかと思います。

アンサンブルとは

 この剣道の精神は、音楽のアンサンブル(合奏、合唱、共演)に通じるように思います。アンサンブルの本来的な意味は、互いが自己を与え合って、お互いを生かしあうことといえましょう。

 全体の調和のために、自分という楽器を殺し、抑制したり制限したりすることがアンサンブルではありません。たしかにそうすることによって「体裁」は良くなるかもしれませんが、結局は自分も他者も生かしあうことができない、命のない“きれいなマネキン人形的アンサンブル”となってしまいます。あくまでも人格の違うもの同士が、共通の目的の達成のために努力していることがアンサンブルなのです。音楽的意向の相違を恐れてはなりません。かえって意向の衝突が不可思議な“摩擦熱”となってアンサンブルに命を与えます。

かけがえのない共演者

 音楽はひとりでは絶対成立しません。私たち声楽家は歌曲を独唱するとき、伴奏者がいなければ演奏行為を成立させることができません。ピアノ独奏は決して“独り言=モノローグ”ではありません。楽器を通した“聴衆”との“対話=ダイアログ”、つまりアンサンブルです。

 大勢の合唱団員も、かけがいのないひとりひとりなのです。大勢で合唱していると「私ひとりぐらい抜けてもかまわないのでは?」思われるかもしれません。たしかにひとり抜けても“音量”という点ではさほど変化はないでしょう。しかし“音色”は明らかに変化してしまいます。“あなた”がいるから、合唱に温かい豊かな音色をもたらすことができるのです。

 アンサンブルでは、共演者は自分にとってかけがいのないありがたい存在です。それと同時に、自分もまた相手にとってありがたい存在であることを忘れてはなりません。

与えることは与(あずか)ること

 「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」(ルカ六・三八)

 「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを救うのです」(ルカ九・二四)

 聖書にも与えることによって自分が豊かになっていくさまが、いたるところに描かれています。逆に神や人に与えることができない者が、自分自身を小さな自分の殻の中に縛りつけ、自分を孤独にしてしまうといえましょう。

 カトリックの方は「ごミサに与(あずか)る」という言い方をします。与(あた)えると書いて、与(あずか)ると読みます。自分をささげ与えることと、自分が真に生かされ育まれる恵みに与ることが、同じ言葉であるということに大いなる摂理を感じずにはいられません。

 主イエスは、ご自身を与えることで御父と人の孤独との架け橋となられました。それゆえに私もまた、私の持っているもの、私の能力、時間、祈り、喜び、涙を機会に応じ「与える」ことができればと思います。「与える」ことは、他者の人格に橋を架けることです。自分の孤独をあとにして、神と人と結びつくことです。「与える」ことで神と人のアンサンブルの調和の中で生かされる“恵み”の人生に与らせていただきましょう。