たましいの事件記者フィリップヤンシ― その探究の軌跡(4)『この驚くべき恵み』
フィリップ・ヤンシーには数多くの著作がありますが、『この驚くべき恵み』は紛れもない代表作、この本を読まずしてヤンシーは語れないという一冊です。執筆のきっかけは、著者が友人から聞いた、ある売春婦の吐き捨てるように発した言葉でした。「教会なんかに行ったら、もっと惨めな気持ちになるだけよ!」世の中で疎んじられていた人たちは、好んでイエスのそばにやって来た。ところが現代の多くの教会は、そうした人々を遠ざけている。クリスチャンは、教会は、何を間違えてしまったのか。
本書はのっけから、恵みを差し出しているか否かが分かれ目なのだ、と明確に結論を打ち出します。著者は厳格な福音主義の教会や大学で、疑念と怒りを心に充満させながら敬虔なクリスチャンを演じ続けた過去の持ち主です。けれど幸いなことに、紆余曲折を経て恵みに出合いました。恵みの信仰は時間をかけて浸透し、著者は平安のない信仰生活に別れを告げます。それはいつの間にかがんじがらめになっていた律法主義との決別であり、神や人に向かう姿勢の変化でもありました。赦しも癒やしも優しさも、恵みに由来することに気がつき、抱いていた神のイメージが決定的に変わったと言います。
著者はまず「恵み」と「恵みでないもの」を対比させて、その違いを浮き彫りにします。たとえば「恵み」が思いがけない贈り物であるのに対し、「恵みでないもの」は働きに応じて与えられる報酬である、「恵み」は赦すが、「恵みでないもの」は復讐する、というように。そして、この世が「恵みでないもの」にあふれていること、「恵みでないもの」こそ、この世の特質であること、そんな世の中で多くの人が苦しんでいると指摘します。
この世は「恵みでないもの」のルールで動き、神の国は「恵み」のルールで動く。両者の違いは、対立する相手の扱い方、そして自分と異なる人々――たとえば売春婦――に対する接し方に顕著に現れます。「恵みでないもの」の支配下にある限り、反目するもの同士が果てしなく憎悪を連鎖させることを歴史や文学から確認し、憎しみの連鎖を断ち切るのは「恵み」すなわち赦しだけに可能である、と著者は主張します。しかし、人間にとって赦しは本能に逆らう難しい行為です。傷ついたものが傷つけた相手を赦すという不公平。犯罪被害者は加害者を赦さなければならないのか。ナチスの暴虐を経験したユダヤ人がSS(親衛隊)の将校を赦さなければならないのか。恵みにはもう一つの難点もあります。神は人間を無条件に愛している。どうせ赦してもらえるなら好き放題に生きても同じではないか、と開き直る人も出てくるからです。恵みは、不道徳な行為に許可証を与えるものではないか、という問題です。
本書は、恵みのルールで生きよという、人間にとって理不尽とも思える要求を神がなされた理由の追究に多くのページを割いています。「恵み」と「恵みでないもの」を伝える四つの物語、みことばの熟考、聖職者・神学者・文学者・心理学者などの知恵の言葉、歴史の証明する恵みの力、同性愛を告白した友人の話……読者は忙しい思いをしながらヤンシー氏の探究に伴走することになりますが、恵みを追究する著者がキリスト教の神の姿を改めて見いだす場面にはいつも静かな感動があります。まことの神に出会うと、リアルな自分を知ることになり、他者を見る目が新しくされることにも気づかされます。探究が進むと問題の核心が捉え直され、「恵みとは何か」や「なぜ良くあらねばならないか」といった問いが形を変えていく点も注目に値します。
引用の多さもヤンシー作品の特徴の一つですが、本書もC・S・ルイスやドロシー・デイによる赦しがたい人を赦すことについての言葉、ドストエフスキーによる人を愛することの定義、ダニエル神父による聖人の定義、ルイス・スミーズによる赦しについての明察、ボンヘッファーによるキリストの弟子の定義など、深く噛みしめたくなる言葉が随所に紹介されています。
恵みを知る以前と以後で信仰が根本的に変わる経験をしたヤンシー氏は、「教会が恵みの文化を育むようになることを切に願っている」(四八頁)作家です。神は人間を愛さずにいられないのに、そんな神に出会えなかった友人を多く目にしてきたと言います。教会と政治の結託に警鐘をならすとともに、律法主義の持つ偽善と誘惑についても説得力をもって語っています。霊的成熟イコール「きよさ」ではないとする考えに、著者の再発見した神の姿が見て取れます。本書は、恵みを受け取ること・提供することに失敗している人々や教会に、何としても恵みを伝えようとした著者渾身の作品です。