恵み・支えの双方向性 第23回反省と謝罪
淀川キリスト教病院理事長
柏木哲夫
「反省だけならサルでもできる」というキャッチコピーがあります。これは猿回しの曲芸師である村崎太郎氏と、そのサルである次郎君の持ち芸の中に「反省のポーズ」があり、それが流行語となったのに起因しています。実際にサルが反省するかどうかは別にして、このキャッチコピーの意味は「反省していますと口では言うが、その反省が謝罪という実際の行動に反映していないのではないか。反省だけならサルでもできるぞ」というような意味を含んでいるように思います。本当の反省は謝罪という行動を伴う必要があるということでしょうか。このことを方向性という観点から見ますと、反省は自分に向けてするもの、謝罪は他の人に向けてするものと言うことができます。
自分が悪かったと反省する場合、反省のベクトルは自分に向かいます。他の人に悪いことをしてしまったことを反省し、謝罪した場合、謝罪のベクトルは自分から他の人に向かいます。反省のベクトルと謝罪のベクトルとは方向が違うのです。反省と謝罪は普通、人と人との関係において起こります。方向は違いますが、両方とも横の関係で起こります。
反省はしてもなかなか謝罪ができないのが、人間の本性のように思います。この傾向は子ども時代に自我の目覚めとともに始まります。四~五歳になると、悪いことをして、親が「謝りなさい」といってもなかなか謝りません。反省していることは表情からわかるのですが、謝罪がなかなかできません。これは大人になっても続きます。「謝りさえすれば問題は解決するのに……ということがこの世にはなんと多いことでしょうか。反省という内向きの方向性が、謝罪という外向きの方向性をとったとき、初めて本当の反省になるのではないでしょうか。
今新聞紙上では、安倍首相が戦争中の日本の侵略行為を謝罪するかどうかが問題になっています。彼は、反省という言葉はよく使いますが、決して「謝罪する」とは言いません。謝罪という言葉は政治的には、日本を外交的に不利な立場に追い込むからというのがその理由のようです。謝罪は人と人との関係でも、国と国との関係でもとても重要な位置を占めます。
「反省」とよく似た言葉に、「悔い改め」という言葉があります。「罪を悔い改める」というように使います。悔い改めも内へ向かうベクトルですが、反省が横の関係で起こるのに対して、悔い改めは縦の関係で起こります。反省は人から自分へのベクトルですが、悔い改めは神(絶対者)から自分へのベクトルと言えるでしょう。反省が謝罪という形で人へ向かうのに対して、悔い改めは行動の変容という形で神に向かいます。
その一例を挙げてみます。末期患者の心理的変化を研究したキューブラー・ロスは、その一つに「取引」があると述べています。この取引は人と神との間で起こります。自分でも治らないのではないかと感じ始めた患者は、様々な心理的葛藤を経験します。自分が不信仰で、あまり教会へも行かなかったので、こんなことになったのではないか、と悔い改めて教会へ通い出します。そのこころには教会へ通いますから病気を治してくださいという、神との取引が存在する、とロスは述べます。本当の悔い改めは行動を伴います。このように本当の反省は謝罪という行動を伴い、本当の悔い改めは行動の変容を伴います。
方向性という切り口で私たちの日常生活を見ていくと、それが行動という形で完成したり、未完成に終わったりすることが多々あります。内なる思いだけでなく、その思いが行動としても表に出るかどうかで、その人の評価が決まることが多くあります。
感性の研究をしている人から聞いた話ですが、感性の三要素というのがあり、それは気づき、感動、行動だそうです。あることに気づき、感動するだけでは感性が豊かだとは言えず、感動に基づいた何らかの行動がないと感性は完成しないということです。
このように見ていくと、「行いのない信仰はむなしい」(ヤコブ二・二〇)という聖書の言葉の重みが伝わってきます。