時代を見る眼261 いまを生きるみことば [3] 「低きに上れ」
在日大韓基督教会牧師
社会福祉法人青丘社評議員
金迅野
ヨハネの福音書の13章には、イエスが弟子たちの足を洗うという有名な場面が記録されています。しかし弟子たちはその意味が分からず当惑したといいます。イエスの「洗足」に比するべくもありませんが、2級ヘルパーの介護実習のために人の足をお湯で洗ったことがあります。足を洗うためには、いすに座っている相手に対してこちらはひざまずき頭を垂れなければなりません。すると、それまで車いすに注いでいたわたしの目線が、誰かを見上げる目線へと逆転します。迂闊にも、そのときに及んで、わたしは、いつもこのように下から見あげられていたのか、ということに気づかされたのでした。
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マッサージのおかげでたまった疲れが取れ、血液の流れがよくなったせいもあって、足を洗われるその人の血色がよくなり、固かった表情がゆるんでゆくのが感じ取れました。それは、ほんの少しだけ、その人の人生の重荷が軽くなった瞬間といえるのかもしれません。逆に、いかに日々の生活を、身を固くして頑張らなければならなかったかということを表していたともいえます。柔らかい微笑みをその顔から消し去るほどに……。
「競争に勝て、しかし、元気でいろ」という価値観が現代社会にあまねく貫通していて、そのように人間の身体を固く、冷たくさせているのかもしれません。
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神の国は、自らの優秀な能力を誇り、他者を見下しながら、「高み」に向かって上へ上へと「バベルの塔」を築こうとする「人間の努力」によって実現されるものでしょうか。むしろ、ひざまずき、頭を垂れ、他者の背負っているさまざまな重荷が軽くされる方向に全身を向ける「交わり」を通してこそ、この世にもほのかに現れるものではないでしょうか。弟子の足を洗うイエスの姿は、無言のうちに、そのことを示しているように思います。
天に「上る」前に、十字架に「上る」道をまず歩んだイエス。しかし、その「上り」は、優位に立って人びとを見下すためのものではありませんでした。むしろ、自分を傷つける者さえも受け入れるために、死に至るほどに身を低くして、痛み、苦しむ、究極の謙遜の姿勢でした。十字架の死を予期しながら弟子の足を洗うイエスの身体。そこからにじみ出てくる無言の「声」に、いま、わたしは、耳をすませたいと思います。「低きに上れ」という透徹した静かな「声」に……。