特集 聖書から見える父親像 まことの父への旅路

日本福音キリスト教会連合 門戸聖書教会 牧師 徳永 大

私の脳裏に焼きついている最も幼い日の記憶は、母に抱かれて夜汽車の窓に映っている自分の姿です。私が三つの頃、母は私を連れて、逃げるように家を出ました。父の女性問題が原因でした。ですから、七年後、父と母が復縁するまで、私は父を知らずに育ちました。それでも感謝なことに、母が父の悪口をいっさい言わなかったため、私は父の遠い面影を慕いながら育ちました。いつか父と暮らせる日を夢見ながら……。

今回、豊田信行先生の『父となる旅路』を読ませていただき、とても複雑な思いにさせられました。私と豊田先生は一九六四年生まれの同い年です。しかし、私が九歳のときに父を再び得たのに対し、豊田先生は九歳のときに、伝道者であられたお父様を失われたのです。しかもそれは、山中で徹夜祈祷中にそのまま亡くなるという、あまりにも突然の出来事でした。
この本は、豊田先生が、お父様の死によって心にぽっかり開いた穴と向き合い、やがて、「父なる神」と出会ってゆく、その長い心の旅路を記したものです。そこに出てくる聖書の話も、父子関係に苦しんだ人物のものばかりで、おそらくは豊田先生ご自身が、魂の苦闘の中で心に刻まれたみことばなのでしょう。
だからでしょうか。読むうちに、私自身も自然と心の蓋を開かれていくように思いました。
尊敬できる父を早くに失くされた豊田先生と、尊敬できない父と再び暮らし出した私。その経験は全く違うのに、です。それはおそらく、誰にとっても、「父なる神」と出会う旅路が、親との関係を見つめることと、切っても切れない関係にあるからではないでしょうか。
私たちは、立派な親であろうが、ひどい親であろうが、あるいは、そもそも親が不在であろうが、親との関係の中で人格の最も深い基礎を築くことになります。そして、まさに、神と出会うのは、その人格の深みにおいてなのです。神と出会うとき、私たちは、知らず知らず、親との関係において培われた自分の心の奥深くの「欠け」に気づかされ、そこに絡まりついている自らの罪の深さを思い知らされます。しかし同時に、その魂の深みで、キリストの十字架とも出会うのです。ひとり子を与えた父なる神の愛。また、その父なる神に「捨てられ」ながら、「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくださった、御子の父への信頼。私たちは、この神の内なる「父子関係」によって救われるのだと言ってもよいでしょう。この「父・子・聖霊」の神の愛の中で、私たちは、親を、また自分自身をも、赦すことを教えられるのではないでしょうか。

私が神学校三年生のときに、父と母の関係は、父の放蕩のために抜き差しならないものとなり、私は父を裁判所に訴えることに踏み切りました。しかし、そのことで、父と私の関係も決定的に壊れてしまいました。けれども、翌年、今度は父の事業が破産し、私はその精算を手助けすることになりました。結果、計画していた留学はご破算になりましたが、父との絆を取り戻すことができ、私自身、主から何ものにも代えがたい深い取り扱いをいただきました。

つい先だって、この春中学一年生になった息子が洗礼を受けました。彼に洗礼を授けながら、もっと感動するかと思っていましたが、心には不思議な寂しさがあり、自分でも戸惑っておりました。しかし、戸惑う私に、父なる神様はこのように語りかけておられたように思うのです。
「あなたが、彼の父親である以上に、わたしこそが、彼の本当の父親なのだよ」
私たちの「父となる旅路」は、私たち自身のまことの父であり、私たちの子どものまことの父であるお方と、出会う旅路なのだと、この頃、深く思わされています