特集 聖書から見える父親像 父となること
日本福音自由教会協議会・鳩ヶ谷福音自由教会 大嶋 重徳
著者がどれほど内面と向き合い、時にえぐり出し、人生を遡り、これらの言葉が綴られたのだろうか。読みながら、この問いが繰り返し起こってくる。そして自分を代表する「父となること」に不安を覚える読者は、著者の向きあってこられた同じ旅路を、自らが一人で歩くことに恐れを感じてしまう。
しかしこの本の基底から鳴り響いているのは、父なる神の「承認の愛」の持つ力強い響きだ。父なる神の「子とされている!」という確かさを背中に感じながらこの本を読む時、父から受けた悲しい記憶に傷ついた自らの旅路は、癒しの旅路へと変わり、愛を知らない自らが夫となり父親となることへも勇気を得ることができる。
わたしは男子学生たちと企画をして、男性合宿を20年近く持ってきた。その中で彼らの中にある一つのキーワードは「不安」だ。性欲をコントロール出来ない不安。うまく女性と付き合えるか、話せるかどうかという不安。妻の期待する良き夫、父に自分はなれるのだろうかという不安。強い母親に育てられ、女性と共に生きることの警戒と恐怖もある。それらの不安を抱えながら、男たちは沈黙を続ける。男が自分の弱さをわかちあうことは、誰かに弱みを握られることとなるために、自分の内側に固く締めた記憶を決して開けようとはしない。
しかし、この本には父となることに失敗をする聖書の様々な人物が出てくる。そのシーンは映像として思い浮かび、それはそのまま自分の生きてきた人生の断片が繋がって、同じく映像として思い起こす。それは思い出すのも恥ずかしい記憶であったり、悲しみと痛みがよみがえってくるものであるが、聖書の登場人物は、あざやかに自分よりも先に失敗をしてくれた良き先輩として、その存在を見せてくれる。
本文には著者の父となる旅路の途中をこう表現する。「自分と同じつらい経験をさせたくないとの強い思い(不安)が、愛情だと誤認され、自分が父親から受け取れなかったものを子どもには惜しみなく与えたいとの強い願望になっていた。この強い願望は愛ではない。子ども時代に満たされなかった自分の心の欠乏感を、子どもを幸せにすることで満たそうと試み、埋め合わせをしようとしていた。当然、そのような願望は子どもたちに理解されない。しかし、子どもに感謝されないと拒絶感や挫折感を覚えた」P328
この言葉は今まで言語化することをためらっていた、男としての弱さをためらわず言い当てているだろう。そして「あなたは1人ではない」と言ってくれるのだ。ダビデとアブシャロム、イサクとヤコブ、ヤコブと息子たち、モーセ、ヨブの人生の失敗、何より著者の人生をとおして、「父となる旅路」は、歴史を越えて男たちの抱えてきた変わらない課題であることが知らせてくれる。そしてそこに必ず介入される神の物語は、わたしの人生の物語ともなって大写しに見せてくれる。
最後に、この本は女性にも是非とも読んで欲しい。傷だらけ、不安だらけの男たちを愛そうと、もっと知りたいと願っておられる女性たちに、妻となり、母となる旅路をも、この本は教えてくれる。女性の犯しやすい罪、母が誤りやすい過ちにも気づかせてくれる。夫を尊敬することは、「尊敬に値するから尊敬するのではなく」、「尊敬」を贈り物として贈ることが大切であることを、この本は示してくれる。そして私は、「父となる旅路」を実は妻がずっと一緒に歩いてくれていることを、読み終えて気がついた。夫婦で互いに読み合うことは、夫婦の、家族の新しい一歩を与えてくれるのではないかとも思う。
さらにヨセフの章の弟献児さんの再会は、わたしに号泣をもたらした。献児さんとわたしは十代の後半から、路傍伝道を一緒にしていた。当然、彼の抱える全ての葛藤を知ることはできなかったが、彼がこぼれるように話してくれた物語の断片が、神様の大きな物語で組み合わされ、繋がったことに神様の深い慰めを思わされた。