ふり返る祈り 第9回 神様、祈れません!
斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授、同学院教会、下山口キリスト教会牧師。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
ローマ人への手紙8章26節
イエス様、私たちは十分に祈ることができません。どう祈ったらよいか分からないときがありますし、祈りに力がなく、祈っても平安がないときもあります。けれども主よ、あなたはいつも祈っていなさいとおっしゃいました。 父なる神はわが子の祈りをないがしろにされないとおっしゃいました。 私の内に力がなくても、豊かな力はあなたの内にあります。 たとえ今すぐに答えがなくても、あなたに信頼し、祈り続けられますように。あなたの力と恵みが弱い私を助け、一つ一つの課題をあなたの力を頂きながら、 歩んでいくことができますようにお守りください。
この文章のテーマが「祈り」であるのに、こう言うのは抵抗がありますが、祈れないときってありますね。祈っていても、言葉が空回りするだけで妙に空しいとき、祈っても心に平安がなく、力が感じられないとき、祈り終わっても、呆然として立ち上がる気力もないときなど、そのような経験をあなたはお持ちですか。本心はまだ座っていたいのだけれども、もう動かなくちゃならない。祈りの平安がないのに落ち着かない気持ちで動き出す。このような祈りに意味があるのでしょうか。祈りが単なる精神の修養のためであるならば、意味があるとは言えません。
確かに多くの祈りは心に平安や確信をもたらします。だから私たちは心の平安のために祈ります。または、心を落ち着かせるために、牧師に祈ってもらいます。あなたはこう言ったことがあるでしょう、「先生に祈ってもらったら心が平安になりました!」 けれども逆だったらどうでしょう。いくら祈ってもらっても、平安は来ません。祈っても無駄です。だから祈ってくれなくて結構です。だから祈るのをやめました。そのように言うのでしょうか。
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主イエスは祈ることを強く勧めました。幾度となく勧めました。諦めないで祈ることを勧めました。平安がなくても祈るのでしょうか。そうです。平安があってもなくても祈るのです。なぜでしょうか。それは祈りが独り言ではなく、誰かに対する語りかけだからです。聞いている方がおられるからです。祈りが単なる瞑想であるならば、心が穏やかにならなければ、その目的を達したことにはならず、無駄と言えるでしょう。ストレス解消のために何か他のことをすればよいのです。けれども祈りは心のエクササイズではありません。祈りは、それが祈りである限り、神が聞いておられ、それに答えようとなさるからです。
あなたが心の平安を求めているならば、神はあなたに平安を与えるために行動を起こされるのです。あなたが空しいと思いつつ祈るときでも、神はあなたの祈りを聞いておられ、その空虚さを打ち砕いてくださるのです。あなたの精神力で勝ち取るのではありません。パウロでさえ、こんなことを言いました、「私はどう祈ったらよいか分からない」と。そんなときも聖霊が彼を内側から助け、彼の祈りを助けたのです。あなたの口から祈りの言葉が出ること自体、神が助けてくださっていることのしるしです。
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祈りは幼子が自分の親に願いを向けるようなものです。イエスは言われました(マタイ7・9―11)。子どもが「お父ちゃん、おなかすいたよ。パンが欲しいよ」と言っているのに、石を与える親がいるか。お魚が欲しいよと言っているのに、ヘビを与える親がいるか。世の中にはロクでもない親もいるけれど、ほとんどの親は子どもに良くしてあげたいと思うものだ。それなら、なおさら天の父は求めてくる自分の子どもの声に耳を傾けないことがあるだろうか。
あなたの必死の祈りをあなたの天の父は確実に聞いておられます。私たちは神の口から出る一つ一つの言葉によって生かされるものですが、祈りも一つ一つの課題を神にゆだねつつ祈ります。友人とのことで問題があるでしょうか。お子さんのことで悩んでおられるでしょうか。仕事のことで問題があるでしょうか。教会の問題で頭を痛めているでしょうか。一つ一つのことを、幼子のように、父なる神に祈りましょう。祈りは単なる瞑想ではありません。聞いておられる方がいます。一つ一つのことを神と取り組んでいくのです。