自然エネルギーが地球を救う 第7回 聖書から教えられるライフスタイル
足利工業大学理事長
牛山泉
福島原発の事故から五年が過ぎ、その周囲はいまだに立ち入りが許されず、いまだ十万人以上の方々が故郷に戻れない状況が続いている。しかし、電力会社は目先の経済状況を理由に原発再稼働に向かっており、政府もそれを後押ししている。東日本大震災に続き熊本地震で明らかになったように、地震が頻発する日本ではまた原発事故が起きたら、栄華を誇ったバビロニアと同じ運命をたどることになる。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか」(ダニエル4・30)と王が誇った都は消え、その中央にそびえていたことのあるバベルの塔もわずかに聖書に名をとどめるにすぎない。
いま、キリスト教徒には「神の国」を目指す新しいライフスタイルが求められている。戦後日本の経済成長期の生き方を超えた、キリスト教徒ならではの生活へと転換することが求められている。そのモデルが西のフランシスコ、東の良寛である。
現ローマ教皇は、自分の名前をアッシジの聖フランシスコからとっている。この人は十二世紀の人であるが、富裕な商人の家に生まれた彼は若い頃は不良青年と呼ばれるような、金遣いの荒い、パーティー好きの放蕩の生活を送っていた。しかしその空しさを悟って回心したのち、あらゆる物質への執着を捨てて「乞食坊主」のような清貧の道を選んだのである。フランシスコ会と呼ばれる彼の修道会は、今でも清貧で知られている。ちなみにカトリックの世界では、フランシスコの「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。……」で始まる「平和の祈り」は、人間の作った祈りの中で最高傑作といわれている。
一方、日本にも良寛和尚がいる。江戸時代後期十八世紀後半から十九世紀初めの禅僧であるから、フランシスコよりずっと後の人である。良寛の言葉「欲なければ一切足り、求むるあれば万事窮す」に良寛の清貧哲学が読み取れる。
二十世紀後半、日本は敗戦からの半世紀、経済成長至上主義という名の貪欲路線をひた走ってきた。勤勉な日本人は私利追求と無慈悲な自由競争の扇動に乗って額に汗し、時には過労死までも伴いながら国を挙げて「モノ、カネ」の世の中を作り上げてきた。そのなれの果てが、現在のモラルの構造的崩壊であり、その典型が安全性を蔑ろにした福島原発の事故であった。今取り組むべき最優先の課題は、地球環境時代にふさわしい経済の再生と並んでモラル、道義の再生である。今、時代のうねりは二十世紀の「経済成長」から、「地球環境時代」へと大きく転回しつつある。地球環境の保全と新しい豊かさの再構築こそが最優先課題なのである。本当の豊かさはモノ、カネではなく心の豊かさなのだ。これについては、一九七〇年代にE・F・シューマッハーが『スモール・イズ・ビューティフル』(『人間復興の経済学』)の中でも述べている。
脱原発はなにも難しいことをいっているわけではない。「未来の世代に健全な地球を手渡したい」という願いは「命を守る」「命を大切にする」ということと同義なのだ。「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30・19)
私たちは、これまで青年時代のフランシスコのように、石油・石炭・天然ガスの化石燃料を使いたい放題にし、原子力まで使って放蕩三昧の生活を営んできたが、スリーマイル島、チェルノブイリ、そして福島原発の事故で、モノ、カネを至上とする生き方のむなしさに目覚めたのではないだろうか。「イエスは言われた。『まだ悟らないのですか』」(マルコ8・21)。取り返しがつかなくなる前に、「回心」して清貧の生活に切り替えて本当の幸せをつかむべきなのだ。フランシスコは自然を愛し、人間を大切にした。彼は自然の中に神の力を感じ、自然を通して神を賛美した。晩年に詠んだ「太陽の賛歌」には自然に対する優しい愛、神に対する賛美と感謝、信仰に裏づけられた楽観主義を読み取ることができる。そして一九七九年には環境保護の守護聖人と宣言されたことも当然である。
原子力発電なしでやっていけるのだろうかと心配する人もいるが、福島原発の事故以降、原発なしでやってこられたのだ。前回述べたように、日本は自然エネルギー王国なのである。神のよみしたもう、命を大切にする脱原発路線に舵を切るとき、神はわれらを養ってくださるのである。「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」(ルカ12・24)