ふり返る祈り 第11回 いっしょに喜び、いっしょに泣く者

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
ローマ人への手紙12章15節

斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授、同学院教会、下山口キリスト教会牧師。

神様、私と一緒に喜んでくれる人、私と一緒に泣いてくれる人がいることは何と素晴らしいことでしょう。けれども私自身は喜んでいる人がいると嫉妬したり、「調子に乗るな」と怒ったりします。また泣いている人がいたら「何でそんなことくらいでウジウジしているのだ」と短気になります。けれども主よ、私自身が喜んでいるときに望むものは一緒に喜んでくれる人です。悲しんでいる私に必要なものは一緒に悲しんでくれる人です。
確かに忠告は必要ですし、厳しさも必要でしょう。けれども泣く者と一緒に泣く人がおり、喜ぶ者と一緒に喜ぶ人がいたら、人は前に進むことができるのです。私自身がそのような助けを必要としているからこそ、私も誰かにしてあげたいのです。どうぞ、あなたのご愛をいただき、喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣く者であらせてください。

孤独のつらさを癒してくれるのは、共に泣き、共に喜んでくれる人の存在です。私たちは悲しみに打ちひしがれるとき、真に分かってくれる人がいれば何とか立ち上がろうとすることができます。喜びや悲しみを分かち合うことは、人と人とがつながりをもつうえでとても大切なことだと思います。人はこれによって支えられ、育てられるのです。小さな赤ちゃんは、自分が泣けばお父ちゃんもお母ちゃんもつらそうな顔をしている、キャッキャッと笑えばママもパパもうれしそうにしてくれる、それを理解します。赤ちゃんは人と自分がつながっていることを感じ、自分は価値ある存在だと自覚していくことができるのです。泣こうが笑おうが誰も応答してくれないままに育ったとしたら、その子どもはまともな精神を育むことができないでしょう。

私は若いころ、失恋をしたことがあります。失恋など珍しいことではありません。皆さんも一つや二つ覚えがあるでしょう。けれども、そのときは本当に苦しくて、何とか自分の心がもとに戻るまで一年かかりました。私がクヨクヨ悩んでいたとき、そのことを知っていたある友人が顔をゆがませて悲しんでくれました。そのときの感覚を今でも覚えています。自分の魂が温かい手で触れられたような気がしました。それですぐに癒されたわけではありませんが、ほとほと自分のことが情けなく感じられていたものですから、その友人の表情によって、こんな私にもそうしてもらう価値があるのかと思いました。

さて、自分はそのように共感してもらってうれしいのですが、自分も人に対してそのようなことができるかというと、できません。私は自分が悩みやすい人間でありながら、冷淡な人間であることを感じます。私の妻などは、人のために喜び、泣き、また怒る姿をよく見せてくれます。ところが私は、カウンセリングを勉強をしてきた割には、人の気持ちがよく分からない人間なのです。
そんな私が神様に示されていることは、人のために祈ることです。牧師ですから、私のところにはさまざまな人たちの抱える問題が寄せられてきます。病人のために、家庭の問題を抱えている人のために、職場や学校で悩んでいる人のために祈るように神様に示されます。そこで気づいたことがありました。祈ることによって、祈っている相手が喜んでいるのを見ればこちらも喜び、悲しんでいる時はこちらも悲しむ経験を、神は与えてくださることが分かってきたのです。

私のような本来淡白な人間は、他の人よりもさらに祈ることが必要なのではないかと思います。祈りを費やした時間に比例して、人々への共感性は増します。名前を挙げて祈ってきた方の悲しいニュースを聞けば悲しいし、喜ばしい知らせを聞けばうれしいのです。
また、主イエスは、自分に反対する人のためにも祈るように言われました。私自身も批判や文句を言いたい人は少なからずいます。けれども私たちは、自分が批判するその人のためにどれだけ祈っているでしょうか。批判しっぱなしではないでしょうか。あなたが一人の人物に向けて批判をするならば、その二倍の分をその人のために祈るべきだと、ある人が言いました。あなたが牧師に向けて批判するならば、牧師のために二倍祈るべきです。あなたが信徒を非難するならば、その信徒のために二倍祈るべきです。
「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5・17)と聖書は命じます。神は祈る者に、一緒に喜び、一緒に泣く絆を与えてくださるのです。