しあわせな見取り 果樹園の丘の訪問看護ステーションから 第15回 惠泉マリア訪問看護ステーションの誕生

岸本みくみ

惠泉マリア訪問看護ステーションは二〇〇七年に開設されました。初代所長の清野は、長年の地域の保健師や助産師、また教員としての働きをリタイアして余市に来ましたが、「あなたたちのやりたかった理想の看護をここでやってみなさい」との社長の言葉に心動かされて、設立を決意しました。
開設にあたっては、余市にすでに二つのステーションがあるのにこれ以上は必要ないとの役場の見解で、一度は計画を中止し、時期を待つことになりましたが、その後しばらくして道が開かれました。
二十四時間対応で要請に応える当ステーションは、余市、赤井川、仁木、古平そして医療過疎地である積丹の地域をカバーし、人々の自宅での生活を支えます。
余市のマリアで育った看護師たちは、さらに各地に旅立ち、千葉の都賀、福島のいわきにもステーションが生まれました。全国の仲間たちの要請に応えて、丹波や沖縄にも新ステーションの準備が祈りのうちに進められています。
マリアの開設を最も楽しみに待ち、祈ってこられた故梶山芳江さんは、マリアの生みの親ともいえます。梶山さんは、小樽友の会(羽仁もと子女史の『友の会』のグループ)で聖書を長年学んでおられましたが、ご本人いわく、「理屈が多く、観念的、否定的な者」だそうで「そうはいっても」と疑うことが身についていたため、信仰を持つには至りませんでした。八十歳を過ぎてから胆のうがんを患いましたが、若いころに入院と手術を繰り返した梶山さんは「手術はしない」と決め、「誰にも迷惑をかけないように」、葬儀は無宗教でと、葬儀会場も決め、献体を希望し、すべてを準備して入院しておられました。
自宅に外泊をしたある日、物忘れによって自分で自分の責任が取れないことを感じ、ショックを受けました。そして初めて牧師にSOSを出しそのことがきっかけで信仰を持ちました。牧師は聖書を取り出してこのように話をされました。「イエス様が来られたのは、すべての人に『永遠の命』を与えるためです。私たちは信じたときに『永遠の命』が与えられました。神様が人生を根底で支えています。肉体は滅んでも存在は滅びないので心配はありません。けれども、ただお願い事をしているだけなら命は来ません。賛美、感謝、愛のとりなしの中で神様に触れ、神様の命を受け取らないと真の命は来ません。『永遠の命』は祈りの中で受け取ります。そうすると何もできなくても『命を流す』ということで社会貢献できます。今、梶山さんにできることは『祈り』だと思います。祈りの中に命を蓄え、梶山さんを訪問した人にその命を流してゆくことができます。」
神様を信じた梶山さんはすっかり安心されたのか、まるで幼子のようになられました。二〇〇六年八月に初めて梶山さんにお会いした看護師たちは、彼女の病室は光にあふれ、まだ見ぬ天国を垣間見ているように感じたと言います。私は生前の梶山さんに直接お会いする機会はなかったのですが、看護師たちは、ステーションの開設を楽しみにし、祈り、応援してくださる梶山さんを頻繁に訪問して一緒に礼拝したようです。
梶山さんの感謝にあふれる心は、痛みに襲われたときにも失われることはありませんでした。天国を心待ちにし、「天国への階段があるかもと思って、足だけは鍛えています」とみんなを笑わせることもありました。
「梶山さんにはまだ仕事が残っているのですよ。病気や死ぬことが最後だと思っているたくさんの人の価値観をひっくり返すということです。梶山さんはたくさんの真理を寝ながらにして見せています。すべてを失ってもなお失われないもの、喜び、平安、感謝です」と牧師が言いました。
三月のある日、強い痛みが襲い、「本当に痛みはつらいです。神様、どうか解き放ってください。痛みに耐えてなすべきことができますように。私にまだ残されている仕事があるなら、その人たちを慰めることができますように」と祈られました。ようやく痛みが和らいだころ、わが子を亡くした方が訪れ、梶山さんの前で泣き崩れました。梶山さんは横たわったままゆっくり呼吸しながらじっと話に耳を傾け、最後に「その大切な子を短い間でも預けてくださった神様に感謝をしないとね」とおっしゃったそうです。それから一か月後、梶山さんは天国に旅立たれました。その二か月後、余市に惠泉マリア訪問看護ステーションが産声を上げたのです。腹水で大きくなったお腹を叩きながら「この赤ちゃんを早く取り上げてちょうだい」と助産師の清野に笑いながら訴えていた梶山さんは、まさしく、マリアの生みの親となられました。
梶山さんの病室にあふれていた光、梶山さんが手にしておられた、病や老いを超えた真の喜び、平安をお届けする訪問看護でありたいと願っています。