豊かな信仰を目指して 第四回 信仰体験はガーンと来る? ―第Xの転機

河村従彦

札幌で生まれ、東京で育つ。慶應義塾大学文学部卒業、フランス文学専攻。インマヌエル聖宣神学院卒業、牧師として配属される。アズベリー・セオロジカル・セミナリー修了、神学、宣教学専攻。牧会しながら、ルーテル学院大学大学院総合人間学研究科臨床心理学専攻修士課程修了。東洋英和女学院大学大学院人間科学研究科人間科学専攻博士後期課程単位取得後退学。博士(人間科学)。現在はイムマヌエル聖宣神学院院長。牧師・臨床心理士。

神さまイメージは生涯のどのようなときに変化するかについて考えてみます。インタビュー調査を行ったところ、回心したときに神さまイメージが変わったという方、キリスト者になってしばらくしてから変わったという方、いわゆる聖化の体験のときに変わったという方、聖化とも違うときに変わったという方、意外なことに本当に人さまざまでした。このように、神さまイメージの変化は神学の枠に落とし込めません。それでも肯定的にとれば、生涯の中でいつでもいいのです。どこかで神さまのイメージが変わっていく。そして、そのことで信仰生活が豊かにされることがあるのです。この経験を、時を特定しにくいという意味で「第Xの転機」と命名します。
神さまイメージの変化はゆっくりなのでしょうか。あるいは急激なのでしょうか。教会生活を送りながら、回心などの体験について証しを聞くことがあると思います。その証しが「ガーン」と来たという話であれば勇ましく、また格好いいかもしれません。ところが、そうでなかった人の証しはパッとしません。本人も、自分の信仰は本当にそれでよかったのかと、何とも言えない引け目みたいなものを感じていることもあります。なぜ信仰体験の認識にこのような差が出るのでしょうか。

この差は、信仰経験がハッキリしているかだけで説明できないのではないかと考えました。というのは、「ガーン」がなかったと証ししておられる方でも、キリスト者として教会に属し、周囲の人たちとよい関係を作り、神さまの恵みの中に生きておられることもあるからです。それで、神さまイメージの変化のスピードと他の要因の関連を調べることにしました。アンケート調査で分かったことは、子どものころに親が養護的な養育態度で接してくれたと感じている人は、神さまイメージが徐々に変化する傾向があり、親が否定的・干渉的な養育態度で接したと感じている人は、神さまイメージが急激に変化する傾向があるということです。もちろん、このことだけが要因だと断定することはできません。また、この結果は一般的な傾向であって、各個人に当てはまるということでもありません。それでも、急激な変化を認識できることだけで、神さま体験の明確さをはかることには無理がありそうです。

ここで一つ、考えておかなければならないことがあります。一般的な傾向として、子どものころに親が養護的な養育態度で接した人は肯定的な神さまイメージを取り込み、親が否定的・干渉的な養育態度で接した人は否定的な神さまイメージを取り込みやすいということです。そうだとすると、信仰体験を急激な変化として体験できなかったことに引け目を感じている人が肯定的な神さまイメージを取り込み、その結果、基本的信頼感の獲得から始まって、アイデンティティーの確立に向けて発達課題を順次クリアし、そのことと歩調を合わせるように、比較的スムーズに神さまの恵みに深められていく可能性があります。
それに対して、自分の信仰体験は急激な変化を伴う明確なものだったと認識している人が、否定的で厳しい神さまイメージに苦しむこともあり得るということです。その場合、明確な証しとその人のありようが周囲の人にはかえってギャップに映り、「どうして?」と違和感を持たれることになります。信仰は「ガーン」があればよいという単純なものではないようです。

神さまイメージの変化は人さまざまで、ゆっくりな人もいれば急な人もいる。とても一定のパターンに収まりきれません。私たちはどちらかというと、明確に認識できるかという視点で信仰体験を考えてきたようなところがありますが、信仰の成長を考えるときには、そのことだけにこだわる必要はなく、むしろ、今、自分はどういう神さまイメージを心の中に取り込んでいるかという視点のほうが大切なような気がします。
さらには、回心や聖化や「ガーン」があったかということをパターン化して自分の信仰のありようを問えば、自分そのものよりもパターンのほうが大切になっていきます。もちろん神学には意味があります。しかし、神さまに愛されている素の自分にとって、「神さまってどういう方なんだろう?」という素朴な視点で自分と神さまとの関係を見直してみる、そんなチョットしたゆるゆる感が結構信仰の実態を表しているのではないか。信仰は、神学が「よし」と言ってくれる私ではなく、イエスさまがありのままで「よし」と言ってくださる私にかかっているのです。