連載 自然エネルギーが地球を救う 第12回 脱原発への現実的シナリオ

足利大学理事長 牛山 泉

福島の原発事故で明らかになったことは、これまで日本における原発推進派と反原発派が互いに不信感を強く抱いて、対話をしてこなかったことがリスクを大きくしたということである。脱原発の主張は国民の大多数が願っているが、立場の違う相手にも届くものでなければ歩み寄りにはつながらない。
原発に限らず、あらゆる事象を白か黒かで単純に分ける議論のしかたは、社会の亀裂を増幅するだけである。自分の心を見ればわかるように、この世の中の現実は限りなく灰色であり、キリスト者は信仰に立って、これをいかに白くしてゆくかに知恵を絞るべきなのだ。一時期、首相官邸前デモでは「即時・無条件・全面」脱原発が叫ばれていたが、私たちの役割は、二項対立を乗り越えて対話の糸口を探り、原発リスクの最小化を目指すことにある。

原発推進派からも唯一受け入れられていた反原発運動の先駆けであった故高木仁三郎は、創世記のノアの箱舟による技術解決主義の萌芽は、被造物世界全体の管理人であるべき人類に再びおごりを与えたと考えている。その技術解決主義が数千年の後に、原子核の封印を破って力を取り出して利用し、問題解決を図ろうとする地点までエスカレートしてゆく。つまり、核エネルギーの解放はキリスト教の世界観から生まれたと解釈している。
ヨブ記38章に「あなたは天の法則を知っているか、そのおきてを地に施すことができるか」とある。ここは聖書で唯一、天の法と地の法の区分がある。その視点に立つと義人であるヨブが試練を与えられることへの説明がつく。人が核というパンドラの箱を開けてしまった以上、地上にあっては、人は苦難から永遠に逃れることはできない。ヨブのように個人的にはいかに倫理的に優れた義人であろうとも、自らに負わされた苦難をも恵みとしてなおも負い続けてゆくべきなのである(ピリピ1・29参照)。
即時脱原発は非現実的であり、具体的に脱原発を進めようとしたら、電源三法交付金が周辺住民の生活を支える基盤となっている原発立地自治体の経済構造を明らかにして、地元コミュニティを交付金なしで維持してゆく代案が必要になる。再生可能エネルギー利用への挑戦も大いになされるべきであるが、再生可能エネルギーだから安全と決まったわけではない。原子力を汚れた文明の権化とみなし、再生可能エネルギー利用を自然と共生する理想の方法と考える姿勢も技術解決主義に立脚しており、科学技術特有のリスクからは無縁ではありえないのだ。
全原発を止めて再生可能エネルギーへのシフトが可能か否かを見極めるためには、まだ相当の時間がかかる。再生可能エネルギーによる電力供給が、技術的にはもちろんのこと、固定価格買い取り制度などの優遇措置なしに完全に経済的にも実用段階に達するまで、世界に先駆けて廃炉技術や使用済み燃料の処分技術を確立し、脱原発に向かう世界各国の廃炉のリーダーとなることが福島原発事故の教訓を生かす道であろう。原発からの「撤退戦」のための人材確保も重要だ。こうした手段の部分をどうするかの議論を欠いたままでは、いつまでたっても脱原発はできまい。

出エジプト記12章に「ちょうどその日」とあるが、高速増殖炉「もんじゅ」の廃止を決めざるをえなくなった今こそ、核燃料サイクルが回らなくなった今こそ、脱原子力のために、原子力への保護政策をやめ、逆に廃炉など脱原発工学の構築を進め、人口減による電力需要の自然減を利用しつつ市場原理に従った脱原発への漸進を促してゆく|それが脱原発への具体的なシナリオである。
戦争もしかりであるが、始めることは簡単であるが、終わらせることがいかに困難であるかは、先の大戦でいやというほど学んだはずである。三百十万人もの死者のうち、最後の一年間で半数近くが亡くなっているのだ、少しでも早く脱原発をしなければならない。

二千年前、イエスは灰色の混沌としたこの世に来られたのである。クリスマスの時、どんな困難や苦しみの中にある者にとっても救い主としてこの世に来られたのである。世界中の再生可能エネルギー投資は、この十年で十五倍に増えており、現在二十五兆円である。すぐに自動車産業と同じくらいの巨大産業ができることは間違いない。原子力発電はせいぜい数兆円以内の産業であることから、再生可能エネルギーのほうがはるかに大きな産業になってきており、これこそ大きなクリスマスプレゼントである。この機会を逃すべきではない。