特集 良き知らせ―ゴスペル 福音を一人でも多くの方にお届けすること
ゴスペルミニストリーS.C.A 代表 山本真一郎
ゴスペル(福音)とは
私たちは神様によって造られた存在であるにもかかわらず、堕落し、神様と断絶し、滅びに向かって歩んでいました。しかし、誰でも自分が罪人であることを認め、悔い改め、福音を信じるのであれば、神の国に入ることができると聖書は教えます。イエス・キリストは私たちを罪から解放するために人としてクリスマスにお生まれになり、十字架にかかり、私たちが負うべき罪の代価をすべて支払ってくださいました。そして三日目に復活され、神様への道を備えてくださいました。
誰でもイエス・キリストを救い主として信じるのであれば、罪が赦され、神の国に入ることができます。これがゴスペル(福音)であり、この良き知らせを一人でも多くの方にお届けすることこそが、私に与えられた使命だと確信しています。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3・16)
ゴスペルとの出合い
私とゴスペルとの出合いは十六歳、一九九六年の秋でした。私の通う学校(関西学院高等部)に、今や日本のゴスペル界の第一人者といわれるラニー・ラッカー氏が来られ、コンサートが開かれたのです。ミッションスクールのため、ほぼ毎日のように全校礼拝があり、讃美歌には随分馴染みがあったのですが、彼が魅せる斬新な音楽に生徒も先生も完全に釘付け状態に。大盛況の中コンサートは幕を閉じ、最後に一部の生徒だけが参加可能な感謝会があったのですが、私もそこに招かれ、不思議な導きにより、ピアノソナタ第八番「悲愴」第一楽章(ベートーベン)を弾くことに。演奏後、彼が私にこう言われたのです、「あなたは選ばれました」と。
このことがきっかけとなり、私は彼のゴスペルバンドのピアニストとしてデビューし、全国各地のゴスペルコンサートでご奉仕させていただくことになりました。その後、神様の導きにより二十歳で受洗し、主のためにお仕えする堅信をし、ゴスペルミニストリーS.C.Aを創立、現在に至ります。
「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43・18―19)
ゴスペルの魅力
このように、多感な高校時代にゴスペルと出合い、さまざまな働きを通して神様の愛に触れ、自分の罪深さ・弱さを知り、二十歳で信仰を持てたことは私の人生において宝です。もしゴスペルと出合っていなかったら、いわゆる「進学」→「就職活動」→「就職」という王道を歩んでいたことと思います。それが当然だと思っていましたし、実際、私には明確な人生プランがありました。しかし、神様は私に「ミニストリーを運営する」という想定外の道を用意されました。
今私はひたむきにその道を歩んでいます。決して順風満帆な時ばかりではありません。試練の山、嵐の渦中を歩むこともあります。しかしそのようなことが起きれば起きるほど、祈りと賛美によって信仰が強められ、引き上げられていく体験ができること、これこそがゴスペルの魅力だと思います。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩篇23・1)
ミニストリーのスタンス
私たちはミニストリーをする際、ミニストリーの健全さを計るバロメータとして、御霊の実を大切にしています。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の九つから成りますが、大きく三つに分類することができます。神様との関係で実を結ぶ「愛、喜び、平安」、周りの方々との関係で実を結ぶ「寛容、親切、善意」、そして自分自身との関係で実を結ぶ「誠実、柔和、自制」。もしどこかに不和がある場合は、いずれかの関係上で肉の性質が働いているかもしれません。そうならないためにも、常日頃から太い幹であるイエス・キリストにしっかりとつながる枝となり、豊かな実を結べるようになりたいと願っています。
「御霊によって歩みなさい。」(ガラテヤ5・16―26参照)
ミニストリーの役割
日本におけるゴスペル(福音)宣教を難しくさせている要因の一つとして、情報化社会が挙げられます。情報化社会が進むにつれ、私たちは気づかない間に世の風潮や価値観に支配されています。いわば広い門から入り、広い道の真ん中を歩んでいるといえるでしょう。しかし、聖書はそのような私たちに対し、狭い門から入り、狭い道を歩みなさいと教えています。イエス・キリストを救い主として受け入れ、イエス・キリストの道を歩みなさい、と。なぜなら、イエス・キリストを通してでなければ、だれひとり父のみもとに行くことができないからです。
今まで広い門から入り、広い道を歩んできた人にとっては大きなチャレンジかもしれません。イエス・キリストを救い主として受け入れるためには自分が罪人であることを認め、悔い改めが必要になるからです。さまざまな現場でミニストリーをさせていただくと、このようなチャレンジを受けられる方々が続々と起こされていきます。古い自分と真正面から向き合うことは決して容易なことではありません。しかし、その方々が神様の前に罪を認め、悔い改め、そして救いの祈りをともにささげるとき、はっきり感じるのです、「主は確かに生きておられる」と。
このように福音を初めて聞かれた方々が、いろいろなチャレンジを通して葛藤の歩みを通られながらも、イエス・キリストを救い主として受け入れていくお姿を拝見できることは何よりの特権です。私たちの働きが求道者の方々の救いのために、あるいは教会との架け橋のために少しでもお役に立てているとしたら、これほど感謝なことはありません。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7・13―14)
ミニストリーのビジョン
ミニストリーのビジョン、それは、より多くの次世代を担うクリスチャンたちが、目をきらきら輝かせながら働けるミニストリー運営です。現在、弊社には優秀な若手スタッフが複数人勤務していますが、神様が与えてくださる収穫があまりにも多いため、まだまだ働き手が不足している状況です。「神様の栄光と人々の救霊のため」に全身全霊で働きたいという次世代を担うクリスチャン(特に教師)が与えられるよう、お祈りいただけましたら幸いです。