連載 恵みの軌跡 第五回 アメリカへの留学

柏木 哲夫
一九六五年、大阪大学医学部卒業。ワシントン大学に留学し、アメリカ精神医学の研修を積む。一九七二年に帰国し、淀川キリスト教病院に精神神経科を開設。翌年日本で初めてのホスピスプログラムをスタート。一九九四年日米医学功労賞、一九九八年朝日社会福祉賞、二〇〇四年保健文化賞を受賞。日本メノナイト ブレザレン石橋キリスト教会会員。

精神科医として、大学病院と関連病院で臨床と研究の日々を送っていましたが、二年めのある日、淀川キリスト教病院(以下YCH、Yodogawa Christian Hospital)から、パートの精神科医師として勤めてくれないかとの要請を受けました。教授の許可を得て、要請に応じることにしました。一九六七年のことでした。
このことが、私のアメリカへの留学のきっかけになりました。学生時代から、いつか留学したいという希望を持っていました。インターン時代にECFMG(Educational Commission for Foreign Medical Graduates)という米国留学試験にパスしていたので、それを利用することも考えていました。そんなとき、たまたまYCHを訪れたワシントン大学(セントルイス)精神科の教授と話す機会があり、留学を強く勧められ、試験を受け、幸い合格し、一九六九年単身渡米しました。
ワシントン大学では、レジデント(臨床訓練を受ける研修医のこと)という身分で患者さんの診察に当たりました。言葉の苦労はかなり大変なものでした。留学が決まってからは、アメリカからの宣教師について、個人的に会話の訓練を受けたので、「なんとかなるだろう」と「主にある気楽さ」(神学者ノーマン・ヴィンセント・ピールの言葉)をもって渡米しました。しかし、現実は想像よりもかなり厳しいものでした。特に黒人の患者さんの英語は、初め、ほとんどと言ってよいほど分かりませんでした。また、考えていることをすぐに英語で話すことにも困難を覚えました。

そんなとき、アメリカ人スタッフの一人が「テツオ、大丈夫。私の子どもは三つだけど、英語ペラペラだよ。テツオも三年たてばペラペラになるよ」と慰めてくれました。この慰めはかなり効きました。朝から晩まで英語漬けの日々で、半年たったころには、英語で寝言を言うようになりました。
精神科の臨床はとてもおもしろく、興味深いものでした。渡米の前に三年間日本で精神科医として臨床に従事したので、日本人とアメリカ人とで病気の症状がどのように違うのかに興味を持ちました。心の病気の場合、その症状はその国の文化や国民性に影響を受けるといわれています。例えば、うつ病の症状一つをとってみても、「人前で泣く」ということは、特に男性患者の場合、日本では多くありません。
しかし、アメリカではそんなことはありません。軽度のうつ病患者(男性)でも、診察場で泣くということがかなり頻繁に起こります。これは国民性の違いによるのだろうと思います。感情を自由に表現してもいい、むしろ、そうするのがいいという文化がアメリカにはあります。一方、日本では、人前で涙を見せるのは、(特に男性は)よくないと考える傾向があり、それがうつ病の症状にも影響しているのではないかと考えられます。

レジデント三年めに「リエゾン精神医学」というプログラムがありました。「リエゾン」は、橋渡しとか連携とかを意味するフランス語で、「リエゾン精神医学」というのは、身体疾患を抱えた患者の精神的問題の解決のため、身体科医と連携しながら精神科医が介入・対応することです。このプログラムで私は初めて「末期患者へのチームアプローチ」に接しました。まさに目からうろこの体験でした。
余命一か月くらいの六十七歳の男性患者を取り上げ、医師、看護師、ソーシャルワーカー、チャプレン、ボランティアなどがチームを組んでケアをしていました。今でこそチーム医療はいろいろな医療分野でごく普通になされていることですが、一九七二年という昔に、しかも余命一か月の人のためにチームを組んでケアする……その理由がよく分かりませんでした。
中心になっている看護師に理由を尋ねてみました。彼女は、「患者さんはこれまで、家族のため、アメリカのため、一生懸命生きてきて、今、体や心の痛みを感じながら死を迎えようとしています。彼のさまざまなニードを、チームを組んでケアするのは、医療や看護にとって非常に大切な働きだと思います」と言いました。

レジデント生活三年めの夏、帰国後どこで働こうかと思いを巡らせていたとき、同じ日に二通の手紙を受け取りました。一つは母校の精神科教授からのもので、大学に助手の席があるので、アメリカでの経験を生かして、臨床、研究、教育に従事しないかとのありがたいお誘いでした。もう一通は当時、アメリカに一時帰国しておられた淀川キリスト教病院のブラウン院長からのものでした。病院に新しく精神科を開設したいので、その責任者になってほしいとの要請でした。
二つとも、とてもありがたいお話でした。いろいろ考えたのですが、決断がつきません。家内に相談したところ、「大学の助手はあなたがならなくても、だれかほかの人がなるでしょう。YCHの精神科の責任者はクリスチャンのほうがいいのでは……」との意見でした。当時通っていた教会の牧師にも相談しました。
彼は、「直接患者に接し、患者の役に立つ職場がいいのでは……」と言いました。当時、アトランタ(ジョージア州)におられたブラウン院長にも直接お会いして、どちらにするか決めかねていることを正直にお話ししました。先生は「神様のみこころに沿った決断ができるようにお祈りしましょう」と言われ、長い、心のこもったお祈りをささげてくださいました。

それでも、なかなか決断がつかず、私は、大学病院とYCHを比べる比較表を作りました。給料、将来性、スタッフの数、安定性、世間的評判……などの項目はすべて大学が上でした。私は項目の最後に「みこころ」と書きました。ほとんど無意識に書きました。「書かされた」といったほうがよいかもしれません。表を見ているうちに、最後に書いた「みこころ」という文字が、とても大きくなりました。そして、私はYCHで働く決断をしました。