連載 しあわせな看取り 果樹園の丘の訪問看護ステーションから 最終回 天国はどんなところ?
岸本みくに
以前にご紹介した百歳のミヨさんに、ある日聞いてみました。
「ミヨさんは死んだらどこへ行くのですか?」
ミヨさんは一瞬戸惑いましたが、すかさずこう答えました。
「そりゃ、明るうて楽しいとこや」
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私は七歳で父を交通事故で亡くし、その数年後に私をとても可愛がってくれた祖母を亡くし、子ども心に「死」というものと向き合ってきました。イエス・キリストを救い主と信じる者は永遠のいのちが与えられ、死後も天国の約束がある、ということは教会学校で教えられていましたが、家族を失った家庭の中で、天国はとても喜ぶべきものとは思えませんでした。とはいえ、想像上の天国は、花が咲き乱れた美しい楽園……。
成長し、自分で聖書に親しむようになってからは、こう思うようになりました。「そんな甘いもんじゃないだろう?」 だって、出エジプトしたイスラエルの民にとって、乳と蜜の流れる約束の地カナンは、戦って勝ち取っていく領土だったのですから。神様が導くという意味がまだ理解できず、自分のための天国を自力で頑張って獲得しようとする私でした。
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「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7・21)
私の永遠のいのちに関する理解は実に心もとないものでした。そんなある夜、地震で目を覚ましました。寝ぼけていたこともあって、何が何だか分からない混乱状態で「死」を考えました。真っ暗な闇の中に吸い込まれ、落下していく自分の姿を思い巡らしました。非常な恐怖を感じました。そのとき光が差し込むように自分の中にみことばが入ってきました。
申命記33章27節「永遠の腕が下に。」無力な私は魂でこのみことばをつかみました。
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩編119・130)
とこしえの全能者の御手の中に自分があることを実感し、この方に信頼し自分の人生の一切を委ねることを覚えた、私の信仰の一大転機でした。
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イエス・キリストを救い主と信じるとはどういうことでしょう?
それは、キリストが私の罪のために犠牲となって十字架にかかって死んでくださった救い主であると受け入れること。でもそれだけではありません。
天の食卓にはすべての人のネームプレートがあり、祝宴の準備がすでにされています。天国で祝いたければ、地上生涯で神の思いに生きなければならないのです。それは、イエス様の生き方に倣い、自分の十字架を負って従うことです。使徒の時代では選民と異邦人、私たちにとっては異なる個性の人々と愛し合い、一つになる世界を造っていくことです。そのために神様は私を型造り、いのちを与えてくださいました。
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愛するとは、感情ではなく、相手がその人らしく花を咲かせられるように手を貸すことだと、常々教会で教えられています。簡単ではありません。いかに愛せない者であるかを突きつけられます。そしてこの愛する苦しみこそ、主がともに負ってくださる十字架であり、私たちの歩むべき道なのだと思います。
訪問看護で、困難な問題を持ったご一家に、どう手助けすればよいのか途方に暮れることがたびたびあります。そのようなときこそ、とこしえの御腕に信頼し、導いていただくのです。人知を超えた思わぬ展開が待っています。愛し合う空気が生まれるのです。神様の出番を知っている看護師はなんと幸いなことでしょう!! この連載はそのことの証しです。
私の尊敬する伝道者、コーリー・テン・ブームはこう言っています。
「永遠のいのちは天国に行く時に始まるのではない。あなたがイエス様のもとに行く瞬間に始まる。そこからすべてが始まるのである。」
「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17・21)
イエス様のおられるところ、そこに天国があるのです。