特集 聖書のとおりにどう生きる? 自分を吟味し日々成長させる
世界中のクリスチャンに影響を与えている話題作が出版された。今、信仰者として問われる在り方とは?
二人の著者に焦点を当て、その全貌に迫る。
『クレイジーラブ』訳者 越野グレース
『クレイジーラブ』の魅力を語るにはまず、著者フランシス・チャンの魅力について語る必要があります。私は友人の勧めによって、フランシスのことを知ったのですが、初めてメッセージを聞いたときから、彼の神に対する謙虚で誠実な姿に感銘を受けました。
少しだけフランシスについて紹介しますと、 一九九四年にカリフォルニア州のシミー・バレーにコーナー・ストーン・チャーチという教会を立ち上げます。初めは三十人程度だった信徒も十年後の二〇〇四年には三千人を超えました。その後もなお成長し続ける最中、二〇一〇年四月にフランシスは突然コーナー・ストーン・チャーチの牧師としての役職を辞めます。
いくつか理由はあったようですが、その一つは彼が牧師としての「人気」を得てしまったからだとフランシスは語ります。「私がメッセージをしないと分かると礼拝に出ない人までいたのです。」 賛美を受ける対象は人ではなく神様であるということをフランシスは何度も強調します。大きな教会ほど牧師がまるでスターのように扱われ、牧師もそのことに葛藤するようです。ですから、フランシスが牧師を辞めたのはとても勇気のある行動だったと思います。
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コーナー・ストーン・チャーチでの務めを終えたフランシスは、サンフランシスコで伝道活動をし、本の執筆を手掛けるかたわら、世界中を飛び回り、各地の集会やカンファレンスでメッセンジャーとして用いられています。フランシスはメッセージを始める前に壇上で跪き、神に祈りをささげます。それは決して「見せつける」ためのパフォーマンスではなく、本当に心からの神に対する謙虚な心の表れだと思います。また、とても正直に自分のことを話します。自分の失敗談や信仰の悩みを赤裸々に話すことで、聞き手も牧師を崇高な対象ではなく、一人の人間として見ることができるのではないでしょうか。
次に気づくことは、フランシスが聖書のみことばを文字どおり受け取り、それを日々の生活に適用しているということです。また、このような生き方をすべてのクリスチャンに勧めています。『クレイジーラブ』の九章にはそのような生き方を貫いた人々の証しが記されています。日曜日に教会に行くことだけがクリスチャンの務めなのではなく、月曜日から土曜日までの生活の中で、私たちがどのように生きているかが重要なのだとフランシスは強調しています。私たちの日々の生活の中で、信仰を貫いているだろうか。また私たちの言動は神に栄光をもたらせているのだろうか。私自身、自分の信仰生活を見返しては反省することが多々あります。自分を吟味し、日々成長していく者でありたいです。
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フランシスは聖書の真実を大胆に語ります。たとえ難しい内容や、普段は控えたいような内容であったとしてもオブラートに包むことはしません。時には厳しいと思える内容でも、はっきりと語ります。それは『クレイジーラブ』にも見られます。特に四章の「なまぬるい人の特徴」や五章の「聖なる神に残り物をささげる」は決してたやすい内容ではありません。心に突き刺さるような内容です。聖書の「難しいところ」を捻じ曲げて、人々が魅力を感じるような解釈をしたところで、 無意味であるということが分かっているからなのでしょう。本当に私たちと神との関係を真剣に思っているからこそ、真実を大胆に語るのではないでしょうか。
最後になりますが、ここで、フランシスの「よさ」を語って終わるのでは、フランシスが本当に私たちに伝えたいことが台無しになってしまうと思います。確かに素晴らしい働きをされていますし、信仰者の模範にもなるような人だと思います。しかし、本当に素晴らしいのはこの全世界を創造された偉大なる神様であって、その神様への賛美を私たちは忘れてはいけないのだと思います。この本を読む人が神に近づき、信仰が強められますように。
新刊『クレイジーラブ』ちょっとさわり読み
この本を読んで、確信してほしいことがあります。神の御心に完全に委ねることで、地上の生涯、また後の生涯においても最大の喜びを得ることができるということです。たとえ周りの人々が、「私は神についてもう充分知っている」と言っても、あなたは「神についてもっと知りたい」と、自分の願いを断言してください。現在の教会のあり方に、問いと疑いを抱いたことがあるならば、この本を通して信頼を取り戻すことができますように。あなたの疑問を受け止めながらも、希望は必ずある、ということを伝えたいのです。
神が私をカリフォルニア州のシミバレーに遣わしたのは、停滞している教会の人々をリスクと冒険の伴う人生へと導くためでした。神様は、だれかを助けようとして極端な行動をするほどに、人を愛することを求めていると私は信じています。私たちが時間、お金、能力を「与える」ことを知り、「与える教会」というムーブメントが起こることを神が望んでいると信じています。それによって私たちは、世界の苦しみを軽減させ、キリストの花嫁である教会の評判を変えることができるのです。何人かから、教会員からも、「あなたはクレイジーだ」とはっきり言われました。しかし、私は人生をこれ以上のビジョンにささげることはできません。
私たちは人々に神を信じない理由を与えることをやめなければなりません。多分、このようなことばを聞いたことがあるでしょう。「私は神を信じるが、それは組織化された宗教のことではない」。もしも教会が、神の望んでおられるとおりに歩むなら、そのような発言をする人はいなくなるでしょう。「教会がしていることは否定できないが、彼らの神は信じない」という表現に変わります。つまり、教会を理由に神を信じないということが言えなくなるはずです。
聖書がどのような生き方を教えているのかを見ていきましょう。自分と似た周りの人を見て、「健全な信仰生活」かどうかを判断しないでください。まずは、神に対する間違った偏見を明らかにし、それによる自分自身に対する間違った考えを明らかにしていきましょう。……イエスは謙虚な仕える者として世に来られましたが、私たちに人生のごく一部をささげてほしいと懇願したりはしませんでした。従う者は、すべてをささげるようにと命じているのです。(「はじめに」より)