ふり返る祈り 第18回 二つのセンサー

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。マタイの福音書10章37節

斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授、同学院教会、下山口キリスト教会牧師。

神様、私たちの葛藤の一つは、あなたに愛されようとする思いと、人に愛されようとする思いの間にあります。世の中には他人にどう思われようとそれほど気にしない人もいるようですが、私たちの多くは人の評価を自分の価値判断にしてしまうのです。私は弱く、あなたに愛されることよりも人に好かれることを選んでしまいます。主よ、どうか私をまず第一にあなたの御心に従う者とさせてください。そして、あなたに愛されることをまず求める者とさせてください。

ある種の人々は人との関係をとても重視します。何よりもそれが優先されます。そのような人は構築された人間関係を傷つけるのを極度に嫌がり、自分の人間関係を良好に保つことにすべての力を注ぎます。自分の価値基準をそこに据えているのです。
平和がその人のモットーです。その人は争いが嫌いです。人の悪口は、言われるのも嫌ですし、言うのも嫌です。とにかく物事が波立つのを恐れるのです。私自身、そのような部類の人間です。時々そんな自分が嫌になります。神との関係よりも人との関係を優先していると思えるからです。
別の人々は人間関係を最優先にしていません。人とぶつかっても嫌われても平気に見える人々です。いや、本当は平気ではないのでしょう。でも自分の信じることのためには人に嫌われるのを厭わないのです。そんな人が羨ましいと思います。自分の平和主義は別名「事なかれ主義」、さらに言うと「人に愛されたい主義」です。

もちろん、神に愛されることと人に愛されることが一致している場合も少なくありません。人に親切にすることは、相手に喜ばれますし、隣人を愛するようにお命じになる天の父もお喜びになることです。仕事や学問に精を出すことは基本的に良いことですし、神様も喜ばれるでしょう。けれども一致しない場合もあります。今、目の前にいる人の願いと神の願いの間に明らかに食い違いがあるとき、あえて神の望むことができるでしょうか。目の前の人の愛情を拒否して神の御心を語ったり、行ったりできるでしょうか。

私たちの心にはセンサーがあります。人へのセンサーと神へのセンサーの二つです。人へのセンサーとは自分が他人にどう思われているか、人に受け入れられているか、好かれているか、喜ばれているかに反応するセンサーです。これがとても敏感であれば、常に百パーセント好かれているという状態でないと警告音を発します。警告音が発すれば何とか人に取り入って、自分が受け入れられるために涙ぐましい努力をするのです。
あなたがこの敏感なセンサーをお持ちで、人を指導する立場にあれば大変です。あなたの真正な思いや考えは問題にならず、とにかく人との平和な関係を保つことを大目的としてあなたの行動や言葉が作られてしまうからです。そこであなた自身の内に葛藤が生まれるのは当然です。すべての人に好かれる方法はないのですから、あなたは統一性のない行動をとるでしょう。
あなたが少しばかり人間関係に熟練している人であれば、皆の妥協点を見いだし、人々を説得するかもしれません。けれどもあなたの究極的目的は、全体の益のことよりも皆に嫌われないことですから、どこかに無理が生まれます。あなたはとても悩むでしょう。最悪の場合、あなたはパニックを起こします。センサーの警告音を止めるためにあなたはあらゆる行動に出るでしょう。でもそのような行動は結局、人からの信頼と尊敬を失ってしまうことが多いのです。

人間の内には神へのセンサーもあります。神のことばに反応し、神の御心を求めるセンサーです。このセンサーは神によって備えられていますが、残念なことに少々さびついています。壊れかけていることもあります。うまく作動しないこともあるのです。このセンサーが、本当はその人の価値基準を作るのです。人からどう思われようと、神の御心を行おうとするセンサーです。もちろん人へのセンサーも無視してはいけません。人の言葉に耳を傾け、人の気持ちに配慮するセンサーは不可欠です。けれども神へのセンサーがまず優先されるべきなのです。このセンサーは日ごとに使っていないとダメになる一方です。祈りとみことばによる黙想が、このセンサーを強化する唯一の方法です。