恵みの軌跡 第八回 大学に臨床死生学講座を開く

柏木哲夫

一九六五年、大阪大学医学部卒業。ワシントン大学に留学し、アメリカ精神医学の研修を積む。一九七二年に帰国し、淀川キリスト教病院に精神神経科を開設。翌年日本で初めてのホスピスプログラムをスタート。一九九四年日米医学功労賞、一九九八年朝日社会福祉賞、二〇〇四年保健文化賞を受賞。日本メノナイト ブレザレン石橋キリスト教会会員。

ホスピスで臨床の日々を重ねるなかで、ホスピスという新しい考え方に対する医療、看護関係者の関心が次第に高まっていくのを感じました。講演や執筆の依頼も増え、私は多忙な臨床の合間を縫って、できるだけ引き受ける努力をしました。ホスピスという考え方が日本に根づいてほしいという強い希望があったからです。一九八六年には、医療、看護関係者向けに『死にゆく患者と家族への援助』(医学書院)を上梓し、翌一九八七年には一般の方々を対象にした『生と死を支える』(朝日新聞社)を出しました。身体症状のコントロールや精神的ケアに関する論文も専門誌に投稿しました。

そんななか、一九九三年、五十三歳のときに、全く予想していなかった人生の転機に遭遇しました。出身大学の人間科学部で、日本で初めての、死を教える「臨床死生学講座」を立ち上げるので、その講座の責任者として赴任してくれないかとの、学部長からの要請でした。私はホスピスでの臨床が好きで、それに重荷とやりがいを感じており、ホスピスに「骨を埋める」つもりでした。大学での教育と研究には興味はありましたが、臨床から離れる気にはなれないので、お断りしました。

そのことはすっかり忘れていましたが、ひと月後に学部長が再度来られました。いろいろ検討したが、死を教える適切な人材が見つからず、ぜひ私のホスピスでの経験を教育と研究に生かしてほしいとの強いご希望でした。学部長は付け加えて、「臨床は続けてくださって結構です。ただ、教育の場として、学生を臨床の場に連れ出してください。先生の回診につかせていただき、カンファレンスに参加させてもらえば結構です」と言われました。「臨床を続けながら、教育と研究も」とのことで、少し心が動きました。五十三歳でキャリアを変えるのは誤算(五三)かなと思いました。友人に相談すると、誤算ではなくてゴーサイン(五三)だと思う、と言いました。
院長に相談すると、「いい話だから、行かれたらどうですか」とかなりはっきりと言われました。家内は、「あなたがいいと思うなら、いいのでは」との答え。一週間ほど考え、祈り、私は大学に赴任することを決断しました。それから十年間、私は大学半分、臨床半分の生活を送りました。

優秀な学生に囲まれて、大学での日々はとても充実していました。学生たちはホスピスでの臨床の経験から、自分の卒論のテーマをうまく引き出す能力を持っていました。十年間いろいろな研究をしましたが、その中でも「悲嘆研究」は講座の大切な研究課題になりました。学部生時代、大学院生時代、悲嘆研究に取り組んだ教え子が現在、他の大学の教授になり、日本における悲嘆研究のリーダーになっています。
ホスピスケアの対象は患者と家族です。学生の一人が、医師は患者と家族のどちらに時間を多く割くかという「Time Study」をしました。私の回診のとき、私が患者に割く時間と、家族に割く時間をひと月にわたって計ったのです。結果は半々でした。
家族の悲嘆には、患者の死を予想して悲しむ「予期悲嘆」と、患者が亡くなってから始まる「死別後の悲嘆」があり、両方にケアが必要です。患者が亡くなる前に十分な予期悲嘆をしておくと、死別後の悲嘆が深くなりすぎたり、長くなりすぎたりしにくいという研究があります。患者さんの死が近づいたときに、家族に十分悲しみを表現してもらえるように時間と場所を整えることが大切です。ホスピスでは、患者さんの死後も遺族のケアを継続して提供します。年に一度、「家族会」を開いて、ホスピスで身内の方を看取られた遺族に集まっていただき、遺族同士、遺族とスタッフの交流会を持ちます。これは大切な遺族ケアです。また、月に一度、希望する遺族に集まっていただき、悲しみを分かち合い、お互いに励まし合う会を持っています。これは「自助グループ」(Self Care Group)と呼ばれ、悲嘆のケアの中で、最も有効な方法といわれています。

もう一つ、学生たちと一緒にした研究に、SRG(Stress Related Growth)があります。「ストレスに関連した成長」という意味です。一般にストレスはよくないもの、避けたいものと考えられがちですが、SRGは、ストレスには人を成長させることもあるという、いわばストレスのプラス面に目を向けた考え方です。死別という体験には悲嘆が伴い、これまでの研究は、悲嘆の症状、回復の過程、回復の援助などに目を向けてきました。しかし、SRGの考え方からすると、死別という悲嘆にも人を成長させる要素があるといいます。われわれの研究によりますと、ホスピスで看取った患者さんの遺族の約三七%に、人間的成長に結びつくと考えられるポジティブな変化がありました。それらは、ライフスタイルの変化、死への態度の変化、人間関係の再認識、生への感謝、自己の成長、宗教観の変化などでした。

大学の定年は六十三歳でした。国立大学の教授は定年後、私立大学でしばらく教鞭をとるのが通例のようで、某大学から声がかかり、そのつもりでいました。その「つもり」を考え直さなければならない事態が起こったのです。名古屋のK大学から人間科学部内に新しく立ち上げた学科で一年教え、その後、学長として勤務してほしいとの要請でした。当時K大学は百十四年前にアメリカの宣教師によって創設された女子大で、学長はクリスチャンであることが学長選任規定に明記されています。クリスチャンで学長の任につく人材を学内で得ることが難しく、私に声がかかったというわけです。これもまた青天の霹靂でした。

私に学長が務まるかどうかの不安とともに、大阪と名古屋の距離感も重いものでした。同居していた九十歳の母のこともありました。家内と相談し、祈りました。そして名古屋へ行く決断をしました。