あたたかい 生命と 温かい いのち 第三回 温かく包んでくださる神様の光
福井 生
1966年滋賀県にある知能に重い障がいを持つ人たちの家「止揚学園」に生まれる。生まれたときから知能に重い障がいを持つ子どもたちとともに育つ。同志社大学神学部卒業後、出版社に勤務。しかし、子どものころから一緒だった仲間たちがいつも頭から離れず、1992年に止揚学園に職員として戻ってくる。2015年より園長となる。
私たちが生活をする止揚学園のある滋賀県には、大きな琵琶湖があります。七歳で入園され、三十二年間ともに生活していた紬さんが、神様のもとに召されて十年がたちました。紬さんのご両親は召天された日に毎年、私たち職員をご自宅に招待してくださいます。
ご自宅は古くから琵琶湖岸に栄えた町にあります。その日は雲ひとつない晴れた日で、湖面がキラキラと輝いていました。そんな美しい湖に心を奪われないよう運転に集中し、紬さんのご自宅に向かったのでした。紬さんの笑顔の写真でいっぱいの部屋で、あのときはこうだったとか楽しく話している途中、お父さんがポツリと言われたのです。
「この前、紬がしゃべっている夢を見たのです。」
その言葉の続きを待ちましたが、それ以上話されませんでした。だから、この一言が私の心に残ったのです。
*
紬さんが止揚学園で生活をしていたころ、学校の先生をしておられたお父さんは「教壇に立つとセーラー服を着た生徒たちを前にして、紬もこの中にポツンと一人座っていてくれるように思ったものです。」と微笑みながら話してくださいました。そのときのお父さんは今の私と同じくらいの年齢でした。ご両親は毎年、紬さんのアルバムを見せてくださいます。そして、一枚の写真が貼ってあるページまでくると、いつも同じ話になるのです。
「このときは、よくやってくれましたね。」
「私はまだ学生で、怖いもの知らずでしたから。」
「突然思い立って、紬のことを話してくれたのでしょう。」
紬さんと私は同じ歳で、町の主催する成人式も一緒に参加しました。紬さんはてんかんの発作を持っていましたからご両親も同行されていました。
式は進み、記念撮影を残すのみというときに、私は何だか、心の中が熱くなってきて、抑えようとするのですが我慢できなくなり、一人、皆が撮影のため移動しはじめた舞台で大きな声で話しはじめたのです。
「待ってください。私は大切なことから皆さんが目をそらしているような気がするのです。今日私は止揚学園で一緒に大きくなってきた紬さんと来ました。紬さんは言葉を話すことは確かに難しいです。でもこの二十年間私たちと同じ時を歩んできたのです。今日ここにいる皆さんは、電車に乗るとき、ご飯を食べるとき、映画を観るとき、 学校に行くとき、それは私たちにとって当たり前のことですが、どうしても一人では社会の流れについてくることができない人がいることを知り、ともに歩もうとする社会を築いていってほしいのです。」
その場にいた人たちは、呆気にとられ、気まずい雰囲気が流れました。そして何もなかったように撮影のための移動の続きを始めました。私は、自分がしてしまった行動に、どんどん落ち込んでいくのでした。
あのとき、ご両親は私を励ましてくださいました。「生くん、ありがとう。紬のことをみんなに話してくれて。」その優しい言葉にうつむいてしまうのでした。紬さんはそんな私を見つめながら笑っていました。紬さんの赤いコートが冬の冷たい空気に温かく映えていました。あれから三十年たった紬さんの部屋で、お父さんの一言が私の胸に深く刻まれました。「紬がしゃべっている夢を見たのです。」
*
今まで何をしてきたのだろうかと心をえぐられました。成人式での行動は若気の至りだったと、忘れようとしていた私。紬さんのことを愛し続けてきたご両親。ご両親は二十歳の私に「ありがとう」と言ってくださっていたのです。今、その気持ちに応えられているのか、と激しく自問しました。すると、知能に重い障がいを持つ仲間たち一人一人の笑顔が見えてきました。そして、私たちを温かく包んでくださる神様の光を感じたのです。そこにいるのは、二十歳の私ではなく、神様が与えてくださった仲間たちとの出会いを感謝する自分でした。すべての生命が等しく尊いものであることを仲間たちから教えられている私でした。「いつでも止揚学園にお越しください。紬さんは今日も止揚学園で、すべての生命を守ろうとする社会が必ずやってきますと、私たちを励ましてくれています。今も紬さんと私たちは一緒です。」そうお別れの挨拶をすることで、ご両親のお気持ちに少しでも寄り添うことができたらと祈るのでした。紬さんは何回もこの道を通ったのだろう、そのときも琵琶湖はこんなに美しかったかな。
帰路、私は一瞬心を奪われました。湖岸沿いには桜の木が並んでいました。卒業式や入学式の季節はきっと美しいだろうと胸が熱くなるのでした。