聖書 新改訳2017 どう新しくなるのか? 新連載〈1〉 全面改訂がなぜ必要なのか

新日本聖書刊行会・新約主任
前橋キリスト教界牧師 内田和彦

十数年にわたる『聖書 新改訳』の改訂作業が、間もなく終わろうとしています。今年十月の宗教改革記念日ごろには、新しい『聖書 新改訳2017』を皆さんの手に取ってごらんいただける予定ですが、どのように変わるのか、なぜそう変えるのか、概要をご紹介しましょう。

全面改訂は、なぜ必要なのでしょうか。新しい聖書は新鮮でも、なじむのに時間がかかるでしょう。「右側の上の段にあった、あのみことば」が別の位置に移って、見つけにくくなるかもしれません。聖句暗記も、すべてではないにしても、し直すことになるでしょう。古い版と新しい版を併用すれば、輪読がしにくくなります。もちろん、購入する負担もかかります。そのような「不便」や「負担」が生じても、聖書を改訂する必要があるのでしょうか。あるのです。
一九六一年、福音主義プロテスタントの聖書信仰に立つ教会の協力により、新改訳聖書刊行会が設立されました。四年後に新約、九年後に旧約の翻訳が完成、一九七〇年に初版、『聖書 新改訳』が出版されました。半世紀近くも前のことです。
その後、一九七八年に第二版が出ました。パリサイ人批判の箇所で、「わざわいが来ますぞ」が「忌まわしいものだ」に変わりましたが、変更はきわめてわずかでした。
しばらくして、初版の出版を支援した米国の財団との版権をめぐる裁判があったために、改訂の必要が指摘されながら、対応できず時が経過しました。さいわい和解することができ、二〇〇三年、現在お使いいただいている『第三版』を出版することができました。
この第三版で加えられた修正は約九百か所です。多いと思うかもしれませんが、二千頁を超える聖書全体から見れば、二頁に一か所、ミニ改訂でした。初めから時間的な制約があって、差別語・不快語を直す以外は、わずかな改善しかできませんでした。ですから、第三版の改訂に当たった私たちは、もっと適切な、もっと分かりやすい訳文を目指す必要を覚えたのでした。

具体的に、どんな必要があるのでしょうか。大きくいって三つあります。第一は、日本語の変化に対応することです。
例えば、福音書にしばしば登場している「言いつける」という動詞は、今では「告げ口する」という意味で使われるようになっています。「命じる」「指示する」とすれば、間違えることはないでしょう。「かわや」という言葉を聞いた若者たちは、「どこのおそば屋さん?」と尋ねるかもしれません。「徳を高める」という表現も、分かりにくいでしょう。否定的な意味を持つ「つぶやき」ですが、ツイッターの時代、「つぶやいて何が悪いのか」と思われるかもしれません。
聖書の改訂が必要となる第二の理由は、聖書学の進歩です。新約聖書に関していえば、半世紀前の翻訳はネストレ・アーラント24版という底本に基づいていましたが、現在は28版です。例えば、テサロニケ人への手紙第一2章7節で、「エーピオイ=優しい」とあったものが、現在は「ネーピオイ=幼い」に変わっています。聖書の教えに重要な違いが生じるわけではありませんが、変更すべき箇所は、かなりの数にのぼります。
文法、語彙、文化などの研究の成果も生かす必要があります。一つ例を挙げると、ヘブル人への手紙11章11節に、「(サラも)子を宿す力を与えられました」とありましたが、使用されている語は、男性が子をもうけることを意味していると分かったので、「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、父となる力を得ました」といった訳にしなければなりません。
さらに、改訂が必要な第三の理由は、初版から第三版までで扱いきれなかった問題があることです。特に、新約における旧約引用や旧新約間の訳語の統一に改善の余地が多くあります。初版は新約から出版したので、十分な調整ができなかったのです。具体例は次号以降に紹介します。

このようなわけで、聖書は変わることのない神のことばでも、翻訳聖書は改訂を重ねていくべきものなのです。そして時には全面改訂が必要になります。ドイツ語のルター訳は、十六世紀に誕生しましたが、今日まで改訂が重ねられてきました。「新改訳」という名称自体、改訂、改訳を重ねていくという理念を表しています。『聖書 新改訳2017』は、初版の理念を継承して行われる聖書全巻の全面改訂で、日本では初めてのものなのです。

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