聖書 新改訳2017 どう新しくなるのか? 新連載〈2〉より適切な日本語に

新日本聖書刊行会・新約主任
前橋キリスト教会 牧師
内田和彦

全面改訂がどうして必要なのか。前回お伝えしたように、一つの理由は、日本語が変化しているので、それに対応しなければならないということでした。まったく使われなくなったわけでなくても、微妙に意味が変化していたり、まぎらわしくなったり、誤解されるおそれがあったりする表現は、できるだけ適切な日本語に置き換える必要があるのです。

例えば、これまでの新改訳には、「弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした」とあります。「言いつける」が「命じる」の意味であることは文脈から分かりますが、「告げ口する」という意味で使われることが多い言葉なので、違和感があります。「命じる」に変えれば、誤解を避けることができるでしょう。
このような変更は少なくありません。「(ヨセフが夢で)戒めを受けた」は、「警告を受けた」、「人をやり」は「人を遣わして」、「ひもじかった」は「空腹になった」、「やかましい」は「騒がしい」、「しわざ」は「行い」、「不品行/不品行な者」は「淫らな行い(淫行)/淫らな者」、「みなの者は」は単純に「皆は」、「(舟の)とも」は「船尾」、「かわやに出されてしまう」は「排泄されます」と変わります。

これまで九箇所あった「徳を高める」という表現がなくなるとしたら、年配の方々は嘆かれるでしょうか。実は、原文に「徳」という名詞があるわけではなく、「建て上げる/築き上げる」といった動詞、あるいはその名詞形で、意味する内容は「成長」です。そこで、「徳を高めるとはかぎりません」は「人を育てるとはかぎりません」、「教会の徳を高めるのでないなら」は「教会の成長に役立つのでないかぎり」となります。
最近、世界は「つぶやき」であふれています。「ツイッター」です。そこには、聖書で「つぶやく」と訳されるときの否定的な意味合いはありません。そこで「つぶやく」と訳されてきた言葉は、文脈に応じて「小声で文句を言う/不満をもらす/小声で話す」などと修正されます。

次のような文はどうでしょうか。「はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。」 漢文訓読に慣れておられる世代であれば、「聖書にふさわしい格調のある表現」となるのでしょうが、若者たち、教会学校の子どもたちが読むには、「はたして」は分かりにくいでしょう。原文に、それに相当する副詞があるわけではないのですから、省いてよいでしょう。
「その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。」 これも味のある文です。しかし、「?の手前」というと、パウロがテモテに洗礼を受けさせたのは、あくまでも体裁を整えるため、という印象を与えかねません。もう少し積極的な意味での配慮と理解すれば、この前置詞句は「ユダヤ人のために」と訳したほうが適切でしょう。
「?できましょう」で終わる疑問文があります。「できるはずがない」という否定の答えを期待するものです。そうであれば、「?できるでしょうか」で結ぶほうが一般的でしょう。

日本語の変化の結果ということでなくても、まぎらわしい表現はいろいろあります。例えば、「?できるために」という表現は、理由なのか目的なのかはっきりしません。目的であれば、「できるように」と変えたほうがよいでしょう。そこで、「悪魔の策略に立ち向かうことができるために」は「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように」と直したいと思います。
慣れ親しんでいて違和感をおぼえないかもしれませんが、「会堂管理者」という言葉は、建物や施設の管理をしている人、という印象を与えます。ユダヤ教の会堂の営みを取り仕切っていた彼らには、「会堂司」がふさわしいでしょう。また、「最高議会」は、立法府というより司法をつかさどる機関ですから、「最高法院」と訳し、その複数形は諸地方にある機関を意味していますから、「地方法院」とします。

表現が分かりにくいかどうかは、世代によって判断が違います。個々人によっても異なります。百人の日本人がいれば、百とおりの日本語があるともいわれます。ですから、訳文を読んでくださるモニターの方々から、正反対のご意見が寄せられることもあります。私たちは、聖書にふさわしい日本語を求めつつ、できるだけ標準的で、これからの世代に分かりやすい訳語の採用を心がけました。