あたたかい生命と温かいいのち 第五回 見つめる先に神様がいてくださる

福井生

1966年滋賀県にある知能に重い障がいを持つ人たちの家「止揚学園」に生まれる。生まれたときから知能に重い障がいを持つ子どもたちとともに育つ。同志社大学神学部卒業後、出版社に勤務。しかし、子どものころから一緒だった仲間たちがいつも頭から離れず、1992年に止揚学園に職員として戻ってくる。2015年より園長となる。

 

映画「沈黙」のことが車のラジオから流れてきたのは、知能に重い障がいをもつ止揚学園の仲間たちと聖日礼拝に向かう車の中でした。私たちが通う日本基督教団能登川教会は、歩いて十分ほどのところにありますが、その日は雨が降ってきたので、歩くことが難しい人は車で向かうことになりました。歩いていると、新たな出会いや発見がありますが、車も結構楽しいものだと備え付けのラジオをつけてみたのです。ラジオは、短く、映画「沈黙」の解説と上映場所、時間を知らせ、次の話題に移っていきました。そして仲間たちの好きな音楽が鳴り始めたのです。
みんなを車から降ろし、礼拝が始まるまでのほんの少しの時間、私の心に残る古い想念が頭の中をよぎりました。

私は小学校を卒業後、中学時代をヨーロッパで過ごしました。当時日本では養護学校義務化という政令が施行されようとしていて、知能に重い障がいをもつ止揚学園の仲間たちは町の学校に通うことが難しくなりつつありました。
止揚学園に勤める私の両親は、この政令に反対していました。そのため止揚学園を出発地とし、東京の当時の文部省まで歩くというデモ行進が行われたのです。たくさんの人たちが参加しました。私も「子どもの笑顔を消さないで」と書かれたプラカードを手に歩いた記憶があります。
そんな状況下での渡航ですから、私は大切な使命を託され留学すると、自分勝手に思い込んでいました。そこにこそ知能に重い障がいをもつ仲間たちとともに歩む、理想の教育があると信じていたのです。
どちらかといえば厄介な十二歳、それが私でした。
まず英語に慣れるため、イギリスの語学学校に入学しました。その日からサウジアラビア、イラン、ポルトガル、スウェーデン等、いろんな国の子どもたちと時を同じくするのです。
はるかかなたのアジアの小さな島国で起こっている日本の教育問題に関して私は一番詳しかったのですが、国と国の文化の違いや、まして、イラン革命のまっただ中だったころの世界情勢のことなどほとんど知りませんでした。本意でなく留学している子どもたちもいました。子どもたちなりに、背負わなくてはならないものがあり、私が背負っていた荷物はその中で、主流ではありませんでした。私は、英語が堪能でないことを理由としてではなく、知能に重い障がいをもつ仲間たちのことを言葉に出すことが少なくなっていったのです。

「沈黙」で描かれている棄教とは、こんな感じなのかと礼拝堂の窓から雨模様を眺めていました。五十のいい歳をした男が感傷にひたっているさまを思い、さすがに恥ずかしくなり、私ごときが分かるものではないと想念を断ち切りました。突然、前奏のオルガンが鳴り始めたことも救いでした。
仲間たちが礼拝の中で楽しみにしていることの一つは、聖餐式です。能登川教会で出されるパンとぶどうジュースは他の教会と比べて量が多いような気がします。仲間たちは、イエス様の身体と血を早く頂きたくてしかたないのです。神聖なる静寂のなか、パンのムシャムシャ、ぶどうジュースのゴクゴクという音が礼拝堂に響くのです。
時には、「イエスさまの身体、おいしかった」と声に出して言う人もいます。この時ばかりは、礼拝堂に笑みがこぼれます。この笑みの瞬間に私は、イエス様を柱としてそこに集う皆が、家族になれたような気がするのです。そしてこの瞬間に神様の沈黙ではなく、優しい微笑みが感じられるのです。
この瞬間、国と国の違いなど意味があるのかと考えるのです。私はこの礼拝堂に、当時の止揚学園の子どもたちの笑顔さえも見いだすのです。そこにあるのは、文化の違いでもなく、世界情勢でもなく、生命のつながりです。
気がつけば、十二歳の私が背負っていた荷物は降ろされて解かれていました。聞こえない心の言葉を大切にしていく歩みの中で、仲間たちの温かい笑顔に出会うたび、その見つめる先に神様がいてくださるように思うのです。その神様は沈黙しているのでなく、微笑んでくださっています。
仲間たちとの祈りのときに、障がいをもつ者ともたない者とか、国と国との違いとか、そのような区切りはなくなり、すべての人に神様が与えてくださった温かい生命の部分で結びついていることに気づかされます。その喜びのときに、うれしそうな声が礼拝堂に響くのです。
「神さま、ニコニコ笑ってはる」
仲間たちが神様の沈黙を解いてくれるのです。