特集 聖書を掘り下げる ―豊かな福音理解を求めて 使徒パウロは本当は何を語ったのか?―N・T・ライトによるパウロの「福音」
リバイバル聖書神学校 校長 山﨑ランサム和彦
N・T・ライトの魅力とは何でしょうか。それは、歴史的正統的キリスト教信仰に根ざしつつ、聖書を深く掘り下げて新しい光の下で読み直し、しかも現代に生きるキリスト者や教会への適用にも目配りを怠らないことではないかと思います。このたび岩上敬人先生の翻訳によって日本語版が出版された『使徒パウロは何を語ったのか』にも、そのようなライトの魅力があふれています。
使徒パウロはキリスト教神学の中で欠くことのできない重要な位置を占めてきました。しかしライトは、キリスト教会はパウロのメッセージを本当に正しく理解してきただろうか、と大胆に問いかけます(本書の原題はWhat St Paul Really Said〔聖パウロが本当に語ったこと〕です)。
ライトの基本的アプローチは、パウロを徹底的にユダヤ教の視点から理解しようとすることです。アブラハムを通して与えられた神の契約が、イエス・キリストの十字架と復活においてクライマックスに達したという終末論的理解に基づいて、今や全世界の王また主となったイエスを異教世界に宣べ伝えようとしたのがパウロだった、ということです。
イスラエルの選びは最初から全人類の救い、そして究極的には全被造物の回復を目的としていました。ところが、そのような神の全世界的な救いの計画のために用いられるべく選ばれたイスラエルは偏狭な自民族中心主義に陥ってしまい、神の計画の完成を妨げていました。しかし、イエスは神に忠実な真のイスラエルの代表者として、神の契約をクライマックスに導き、彼ご自身が王として統べ治める新しい終末の時代の幕を開けたのだ、というのがパウロの理解です。
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したがって、パウロが宣べ伝えた「福音(よい知らせ)」とは、このような契約のストーリーを背景とした、「イエスが王である」という告知にほかならない、というのがライトの主張です。それは普遍的な宗教的真理でも、どうすれば救われるかという方法について述べたものでもなく、イスラエルの神が歴史において起こされた決定的行動についての「知らせ」だったのです。
「義認」という重要な概念も、このような枠組みで考えなければならないとライトは言います。それは普遍的な救いのシステムではなく、終末において神がイスラエルとの契約を果たされるとき、真の神の民と認められるのは誰かという問題に関わる概念だと言うのです。ライトによると、パウロが語る義認とは、イエスを信じる者が、ユダヤ人であれ異邦人であれ、真の契約の家族のメンバーになっているという宣言です。このように、パウロが「本当に語ったこと」は、徹頭徹尾ユダヤ的なメッセージだったとライトは言います。
ライトが提示するパウロの「福音」は、現代の私たちにとって、どのような意味を持っているのでしょうか。多くの日本人クリスチャンは、自分の信仰にアブラハムやイスラエルがどのように関係しているのか、ほとんど実感を持っていないのが実情ではないかと思います。それはもしかしたら、私たちの福音理解が「イエス・キリストを信じれば罪が赦されて救われる」という(それ自体間違っていないにせよ)狭く限定されたものになっていて、唯一の真の神がイスラエルとの契約のクライマックスとしてイエスを通してなされた救いの出来事についての「知らせ」という側面が欠落してしまっているからなのかもしれません。けれども、「イエス・キリストが全世界の主である」というパウロの福音は、個人主義的敬虔の領域に属するものではなく、全世界にこの主への忠誠を求める、壮大なスケールを持ったものだとライトは言います。ライトはこのようなパウロの「福音」を教会の中心に取り戻さなければならない、と訴えているのです。
『使徒パウロは何を語ったのか』
N・T・ライト 著 岩上敬人 訳
タルソのパウロはキリスト教の基礎を築いた人だったのか。使徒の働きとパウロ書簡、一世紀ユダヤ教の近年の研究から、イスラエルのメシヤであり王、教会の設立者、世界の主であるナザレのイエスの証し人で、その福音の宣告者であったことを確認する。
B6判 386頁
定価2,400円+税