聖書 新改訳2017 どう新しくなるのか? 〈5〉理解しやすい訳文
日本語の改善という課題のうち、今回は、誤解を避け、理解を助ける工夫について説明しましょう。
新改訳第三版では、使徒の働き9章9節で「(サウロは)飲み食いもしなかった」という表現がありました。ダマスコ途上で復活された主イエスに出会う経験をした直後のパウロのようすを記した言葉です。これは、「食べることも飲むこともしなかった」と変えることになります。「飲み食い」というと、宴会を連想するかもしれないからです。このように、「間違いではないが、やや不適切」という表現も、時にあるのです。
山上の説教の中に、「なぜ着物のことで心配するのですか」とありました(マタイ6・28)。「着物」というと、「和服」を思い浮かべる人もいるでしょう。平仮名一つを加えて「着る物」とするだけで、衣服全般を表す言葉となります。このように、『新改訳2017』では、最適な表現を用いるよう努めています。
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理解を助けるうえで、思いのほか重要なのは段落替えです。使徒の働き7章2 | 50節は、三頁にわたるステパノの長いメッセージですが、これまでなんと、段落替えがまったくありませんでした。話が転換する9節、17節、23節、30節、44節で段落替えをすると、読みやすく(そして講解説教がしやすく!)なると思います。
同様に、バプテスマのヨハネの殉教の話(マルコ6・14 | 29)は、イエスのうわさを聞いたヘロデ、ヨハネの投獄、ヨハネの斬首という、別々に起こった三つの出来事から成り立っています。そこで、途中の17節、21節で段落替えをしたほうが、話の流れがたどりやすくなるでしょう。
逆に段落替えをなくしたほうがよい箇所もあります。マルコの福音書6章6?7節は、6節途中で段落替えをし、7節でも段落替えをしていましたが、村々の巡回と弟子たちの派遣を切り離す理由はないので、後者の段落替えは外します。このような問題意識に立って、新約聖書について言えば、底本のネストレ・アーラント二八版と国際聖書協会第五版を参考に、マタイの福音書から黙示録まで、すべての段落替えを検討し直しました。
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文章を理解しやすくするためには、漢字の適切な使用も大事です。これまで新改訳は漢字が少なく、したがって小学生にも親しみやすかったのですが、半面、平仮名が十何文字も続いたりして、読みにくくなることもありました。漢字には一見して意味が分かる利点があります。そこで今回の改訂では、かなり漢字表記が増えることになります。
動詞では「癒やす」「分かる」「背く」「試す」「増える」「(魚を)捕る」「崩れる」「狙う」など、名詞では「証し」「闇」「鍵」「大人」「宥め」など、多くが漢字に変えられます。漢字と平仮名が交じった熟語「事がら」「飼葉おけ」は、「事柄」「飼葉桶」に修正します。形容詞や副詞では「一緒に」「本当に」「立派な」「見事な」「大勢の」「今日」「明日」などです。「やさしい」も「優しい」「易しい」に変えられるので、意味はどちらなのかと迷うことはありません。
ただし、漢字への変換は、機械的にしたわけではなく、漢字と平仮名を併用するケースも少なくありません。例えば、「みな」は普通「皆」ですが、「?はみな」といった副詞的用法では平仮名になります。「一切の物」「一切の重荷」に対し、「いっさいしてはならない」という使い分けもあります。「祈り/感謝をささげる」に対し、「いけにえ/自分を献げる」となります。物質的なものとそうでないものが区別されるのは、「ふるう」もそうです。「権力をふるう」に対し、「槍を振るう」となります。名詞と動詞で異なる場合もあります。名詞は「(金)儲け」、動詞は「(五タラント)もうける」です。さらに神が主体であれば「のろう/のろい」、人間が主体であれば「呪う/呪い」といった区別もします。前置詞は「?にしたがって」ですが、動詞は「従って」と漢字で表記します。
さらに微妙な区別の例として、「?てきた」と「?て来た」の使い分けがあります。何かをずっとしてきた場合は平仮名で、「示してきました/書いてきました/妨げられてきました」となり、空間の移動を伴う場合は漢字で「戻って来ました/残して来ました」となります。ヘブル人への手紙2章6節に「何もの」、ヤコブの手紙4章12節に「何者」とするのは、前者では神の恵みを受ける人間とはいかなるものかと問うているのに対し、後者では思い上がりを戒めている、という意味の違いがあるからです。
こうした箇所をご覧になって、「漢字変換ミスを見つけた」と思わないでください。むしろ、「あちらは漢字、こちらは平仮名……とすれば、何か意味があるに違いない」と、考えながら読んでいただければ幸いです。
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