書評Books 真剣に罪と神に向き合い、その中で神をより深く知る
日本福音キリスト教会連合 生田丘の上キリスト教会 牧師 野村天路
『神の喜ぶささげもの-詩篇51篇講解』
鞭木由行 著
B6判 1,500円+税
いのちのことば社
悔い改めとは何ですかと尋ねられたとき、皆さんはどのように答えるでしょうか。悔い改めとは、一般的な反省や謝罪と同じだと思いますか。
悔い改めるとはどういうことかという問いは、信仰者にとって具体的であり、かつ実際的な問いです。罪を犯さない人は一人もいないのですから、私たちは、罪の現実に向き合わなくてはなりません。
ところが、実際は、罪の現実と向き合うことがよくわかっていないということがあると思います。悔い改めとは、心の中で神様に「ごめんなさい」と言うことというくらいに考えてしまう。あるいは、悔い改めを、「自分の罪を認めた」ことを言い訳にして、罪の悩みをこれ以上考えないようにする自分なりの理屈にしてしまう。
また、言葉に振り回されるという面もあると思います。罪を犯したから、悔い改めなくてはならない。「ごめんなさい」と言って、赦されなくてはならない。罪から方向転換をしなくてはならない。そうして、自分自身の「悔い改め」という言葉のイメージに振り回されて、結局は、何かをすることによって罪の現実と向き合うことを避けてしまう。罪に悩むことをやめて、前に進もうとすることを「悔い改め」と呼んでしまっている。そんなことがあるのではないでしょうか。
では、何が本来の悔い改めなのでしょうか。真実に罪と向き合うとはどういうことなのでしょうか。
本書を通して、重大な罪に向き合うダビデの姿を見ることができます。否定することができない罪の現実に向き合い、それでも神に向かい、神のさばきと神の愛を知る。そういう一人の信仰者、ダビデの姿が詩篇51篇にはあります。これは、悔い改めとは何かと言葉で定義し説明する以上のことです。それは、ダビデという信仰者が真剣に罪に、そして何より神に向き合い、その中で神をより深く知ったということです。この姿から教えられて、私たちもまた自分自身の罪に向き合い、神を知ることになるでしょう。