私の信仰 履歴書 第四回 献身の道を踏み出す
野田 秀
大学を卒業したのは昭和三十年(一九五五年)のことであり、日本の敗戦から十年が経っていました。
世の中は落ち着きを増してはいましたが不況のまっただ中にあり、就職も楽ではありませんでした。やっとの思いで東京にある精密機械を扱う会社の事務職員として採用されました。給料は手取り九千円の新米サラリーマンの誕生です。面接のときからクリスチャンであることを明らかにしたのですが、課長が理解を示してくれたので問題はありませんでした(この古沢課長は晩年に鎌倉の教会で洗礼を受けておられます)。
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私は背広に身を包んで、武蔵小金井にある兄嫁の実家に寄宿しながら品川まで通うことになりました。その家で、私は兄嫁のお兄さんの河野恒人とさんに会うことになります。私より五つほど年長で、スタートして間もないフリー・メソジスト小金井教会の受洗者第一号であり、誠実かつ熱心な信徒でした。ある日、いっしょに聖書を学ぼうと誘ってくれました。それから毎晩、ローマ人への手紙を開いて、彼は熱く、そして長く語るのでした。実をいうと、疲れて帰る私にとっては少々迷惑な話でしたが、昭和ひとけたの常で「いや」とは言えませんでした。私の信仰のお里が知れるというものです。
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出席する教会が決まっていなかった私は、結局、小金井教会に出席するようになります。このとき、また摂理の歯車が、コトリと音を立てて回ったことに私は気がついていませんでした。小金井教会は、エバ・B・ミリカン宣教師を中心に青年たちの多く集う教会であり、後の芳賀正牧師が伝道師の頃でした。そして間もなく、腰掛け気分で集う私に突然のように信仰の転機が訪れることになります。
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その夏、教会は、N・オーバランドという若い宣教師をリーダーにして、隣の武蔵境で五日間の天幕伝道会を行いました。救われる人が起きないまま五日間が過ぎたとき、宣教師はあと五日しようと言い出したのです。十日間、集会が継続されたのですが、目に見える結果はありませんでした。何と宣教師はあと二日やろうと言うのです。都合十二日間の伝道集会が、見えるところでは特別な実りなく終わりました。しかし、不思議なことに、会社の帰りにそ
こに足を運ぶうちに、ほかならないこの私のうちに何かが起こり始めたのです。
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それが何であったか、言葉に表し尽くせないのですが、内側から突き動かされるような感覚が一日ごとに私を捕らえていきました。それは、後に知ることになる、メソジストの先駆けとなったジョン・ウエスレーの「自分の心があやしくも熱くなるのを覚えた」という経験に近いものであったかもしれません。それまでイエス・キリストを信じてはいましたが、喜びのない、冷たくも熱くもない、信仰と生活が分離した状態にあった私に、あらためてキリストによる救いの確信と喜びが与えられた時であったのです。
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それからの私は変えられていきました。その年の秋に洗礼を受け、ふつふつと湧いて来る内側の促しに動かされ、自分がどう生きたらよいのかを問うようになりました。主から与えられているこの喜びを伝えるために生涯をささげるべきであるという思いが、日々増し加わっていきました。会社でもそれまで昼休みには碁ばかり打っていたのですが、それからは聖書や信仰書を読むようになりました。一年後に神学校に進むために退職を申し出たときに、古沢課長が「こうなると思っていたよ」と言い、はなむけに課の全員がサインをした革表紙の聖書を贈ってくれました。
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こうして大学を卒業して一年後に、考えもしなかったことでしたが、神学校に入ることになったのです。しかも、入学するように勧められたのは、二年前に一晩だけ出席した丸の内教会の蔦田二雄牧師が院長のインマヌエル聖宣神学院でした。ここでも不思議な神の摂理の御手が、ぐるりと大きく回されていたのだと思い知らされます。
まだキリスト教についての理解は浅く、聖書の通読すら満足にできていなかったような幼い者でしたが、心に迫られるものに押し出されるようにして献身の道を踏み出したのでした。敗戦以来、心を長く支配していた精神的放浪状態から解放され、主に従う喜びに満たされていました。ハレルヤ。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ3・13)