『歎異抄』と福音 第三回 耳の底に留まるところを記す
大和昌平
一冊の本が書かれる時、どの著者も最初に書くであろう二つのポイントがある。一つは、どんな問いをもって、何のためにこの本を書くのかという問題意識だ。もう一つは、その問いをもって、どんな方法で書くのかの方法論になる。序に書かれるのは、まずこの二点である。
『歎異抄』の序を見ると、唯円にこの本を書かせた問題意識と、どのように書くのかの方法論が書かれている。短い文章なので、二つに分けて序の全文を読んでいきたい。まずは、前半の問題意識のくだりから。
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◇「ひそかに愚案をめぐらして、ほゞ古今を勘ふるに、先師の口伝の真信に異なることを嘆き、後学相続の疑惑あることを思う。幸に有縁の知識に依らずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟を以て、他力の宗旨を乱ることなかれ。」(序)|つらつらと愚考を重ねながら、先師生前の昔と亡き後の今を考えてみますと、親鸞聖人が口ずから語られた真の信に異なる教えがはびこるありさまは嘆かわしく、教えを継承してゆく者たちに疑惑が広がらぬかと案ぜられます。幸いにも良き師に導かれる縁を得なければ、どうして念仏易行の一門に入ることができましょうか。自分勝手な理解をもって、他力の教え本来の主旨を決して思い誤ってはなりません。
唯円がこの書を書かねばならなかった問題意識は明確であり、先師親鸞の教えをゆがめる異端がはびこる惨状を嘆き、それを正したい。その一念を『歎異抄』という題名が端的に物語っている。
親鸞は「他力」への「信」にかける「易行」を語ったという。それは、「自力」によって「行」に励む「難行」としての仏教とは、およそ対照的なありかたである。
「信」と「行」、どちらかを捨てて、どちらかだけを取るとは極論であり、様々な異議や異論を生むことになった。唯円は自分勝手な理解で、先師の教えを思い誤ってはならないと慨嘆しているが、これは無理もない展開であったのかもしれない。
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次に、方法論を語る後半部分を見よう。
◇「よつて、故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留まる所いささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。」(序)|それゆえに、故親鸞聖人が語られたご趣旨の、わが耳の底に留まるところを少しばかり記します。ひとえに心を同じくする念仏者たちの不審を晴らすためであります。
唯円は、自分がこの耳で聞いて、しっかりと耳の底に残っている親鸞の言葉をここに記し、後進の抱く疑念を解消したかった。そのために、直弟子による聞き書きを残そうとした。『歎異抄』全十八章の前半、十章までが親鸞の語った言葉がいきいきと綴られる部分だ。後半は、唯円が異端を批判する幾分冗長な議論である。
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話は変わるが、モーツァルトの「レクイエム」を最初に聴いたのは、カール・ベーム指揮のレコードだった。表面がモーツアルト自身の未完曲で、裏面は彼の死後に他の作曲家が完成させたものだ。天才による唯一無二の調べとは明らかに別物の音楽が付け足されていて悲しくなった。そんな比喩を持ち出せば唯円に失礼かもしれないが、『歎異抄』を読む時にある種の落差を感じざるを得ない。
唯円が誰であるかは異説があるけれども、「河和田の唯円」だとする定説に従う。常陸国河和田(現在の茨城県水戸市)に親鸞より五十年後に生まれた、関東の弟子である。唯円に仏教の学識があったわけではない。彼はひたすら親鸞の語る言葉をそばで聞き入り、心に沁み込ませただろう。それはふだんの生活の事どもとは異なる鮮烈な記憶として残った。その耳の底にしっかりと残る親鸞の言葉を彼は記した。鎌倉時代に書き残された親鸞の言葉は、現代の私たちにも生きた言葉として響いてくる。
唯円の書き残した言葉が、もちろん親鸞のすべてではない。唯円の理解した、そして唯円の好んだ親鸞の言葉が記されただろう。しかし、聞き書きの歴史的価値は重い。
現代の聖書学に画期的な転換をもたらした、リチャード・ボウカム著『イエスとその目撃者たち―目撃者証言としての福音書』(原著は二〇〇六年公刊)がある。聖書学者より歴史家のほうが聖書を信用していると言われるほど、批判的な聖書本文批評が近年全盛であった。ボウカム氏は、福音書は決定的な歴史的出来事の目撃者証言であって、数世紀にわたって変容する民俗伝承とは異なり、容易な変更はできない歴史資料として信頼に値すると論じた。
唯円の『歎異抄』が現代人の心を今も打つのは、直接に聞いた言葉を書いた歴史的な証言だからなのだろうか。
注 1 念仏易行=阿弥陀仏の名を称えるだけの易しい修行
注 2 他力=阿弥陀仏の助けのみによって覚りを目指す道