時代を見る眼277 [1]宗教改革500周年をこえて 「恵み」は「優美」??
神戸改革派神学校 校長
吉田 隆
“宗教改革500周年”という言葉が昨年あたりから盛んに見受けられ、今年は肝心の10月31日に行き着く前にすでに食傷気味である。
お祭り好きなのは、日本人に限らないらしい。今年は、本場ドイツもそうとうな盛り上がりようで、さまざまな行事が目白押し。ルター・グッズも、定番の記念切手やTシャツからルター人形や“ルター・バーガー”まで。私は今年ドイツに出かけた同僚牧師から「メガネ拭き」をお土産にもらった。
表面にはルターの肖像とエペソ2章8節のみことば(もちろん、ルター訳!)。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」。このメガネ拭きで汚れた眼鏡を拭くと、何とまぶしいほどに神の恵みを再発見する! ということなのだろうか。
ルター訳での「恵み」は、ドイツ語では「グナーデ」。最近精度を増したと言われるGoogle翻訳に入れてみると、なんと「グナーデ」も英語の「グレイス」も日本語では「優美」。ちなみに、逆に日本語を入れてみると「恵み」も「恩恵」も「グナーデ」にならない。
「恩寵」でやっと出てくる。英語ではさすがに「恵み」で「グレイス」となるが、「恩恵」では「ベネフィット(益)」。なるほど。こうしてみると、私たちが無意識に使っている「恵み」や「恩恵」という言葉もまたキリスト教専門用語で、一般の感覚とはズレているのだなあと改めて気づく。
主の「恵み」は、主の「優美」さ。これはこれで一理ある。しかし、そこには「恵み」を勝ち取られた、壮絶な十字架の死のイメージは出てこない。ひょっとすると、教会でも「恵み」が「優美」に“変換”されてはいないだろうか? ちょっと(否、そうとう)気になった。
宗教改革は、神の言葉の再発見から始まった。聖書の言葉の意味の再発見である。ルターは、それを庶民の言葉に置き換えたのだ。「神が我らの言葉で語っておられる!」そこに信仰の覚醒と革命が起こった。言葉の力を軽んじてはならない。
神の「恵み」が単なる「優美」さと誤解されているとしたら、その原因は聖書の訳語のみならず、少なからず、それを説き明かす者にもあろう。あの圧倒的な神の「恵み」を、今日、どう表現し伝えればよいのだろう。