ミニ特集 西郷さんは聖書を教えていた
クリスチャン新聞編集顧問 守部喜雅
二〇〇七年の暮れ、鹿児島市にある西郷南洲顕彰館で開かれていた「敬天愛人と聖書」展に、鹿児島市在住の川邉二夫氏(鹿児島バプテスト教会員)が来訪、実は、明治の初め、川邉家を訪れた西郷隆盛が、耶蘇教の教典を教えてくれていた、という驚くべき情報を提供してくれた。
西郷隆盛と川邉家との関係は、十八歳の西郷さんが、当時、川邉家が民主的な統治をしていた鹿追原地区の視察に訪れたときに遡る。以後、両者の間には、親しい関係が生まれ、明治になって、川邉氏のひいおじいちゃんの代に、西郷さん自らが読んでいた漢訳の新約聖書の内容を教えていたのだという。二夫氏が、その事実を知ったのは中学生の頃である。父親から密かに聞かされ、「これは人には絶対に言うな」と釘をさされたという。
西郷さんが川邉家を訪れ、聖書を教えていたのは、おそらく、明治六年から九年頃の鹿児島でのことと思われる。明治十年に起こった西南戦争で、西郷さんが命を落として、それ以後は、聖書を教えてくれる人はいなくなり、二夫氏の祖父も父親もクリスチャンではない。ではなぜ、二夫氏はクリスチャンになったのか。「実は、私の信仰体験には西郷さんが関係しているのです」と語る。
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西郷さんが聖書を読んで教えてもいたということは、川邉二夫氏にとって、憧れのようなものとして、ずっと心の中にとどまり続けていたが、自分で聖書を読むことはなかった。キリスト教会に入るにも敷居が高かったという。
転機は、二夫氏が二十代の頃、九州の小倉で住友金属に勤めているときにやってきた。
「上の兄が、事業を建て上げようとして、人にだまされる形で多額の借金を抱えてしまったのです。当時、私の月給が七千円の頃に、五十万円の借金をして、その返済を私がすることになりました。たいへん苦しかったです。その後も、兄は私を頼って借金を重ね、その重圧に耐えきれなくなり、兄さえいなければ、と考えるようになったのです。」
“兄さえいなければ”という思いは、いつしか、殺意に変わっていったという。
「凶器まで用意して、明日、決行すると決めた夜、私に驚くようなことが起こったのです。夜、ぼんやりと外を眺めた後、部屋に戻ったとき、そこに本棚がありました。その隅の方に、気にかかる書物に目が留まりました。それが、姉が持っていた聖書だったのです。」
表題は“ヨハネの福音書”とあった。二夫氏は、すぐに、それが、西郷さんが読んでいた聖書という本であることに気づいた。
「あっ、これは、西郷さんが読んでいたという聖書だ、と分かって、その場で私は夢中になって読み始めました。」どんどん、読み進めていくうちに、ヨハネの福音書八章一節から始まる記事に衝撃を受けた。姦淫の場で捕らえられた女をみなが糾弾しているとき、イエスは「あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われた場面だ。
「ここを読んだとき、泣けて泣けてしかたありませんでした。自分の罪が分かりました。兄を殺そうとしていた自分が罪人だと分かったのです。兄貴を赦そうと思ったのは、その時でした。今でも、この聖書の箇所を読むと涙が出てきますよ。」
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一九六三年九月、川邉二夫氏は小倉の鍛冶町教会に初めて行き、礼拝に参加した。聖書は西郷さんが読んでいたと思うと、毎朝、毎晩、聖書の言葉をお経のように唱えていたという。
「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3・16)
このイエス様の言葉を、どこに行っても、繰り返し唱えていたという。もし、西郷さんが川邉家に来て聖書を教えていたことを父親から聞いていなかったら、川邉さんが聖書を開くことはなかったかもしれない。