聖書 新改訳2017 どう新しくなるのか? 〈最終回〉 新改訳としての連続性
『新改訳2017』が新改訳第三版からどう変わるのか、新約聖書から具体例を挙げて説明してきました。紙面に限りがあるのでほんの一部ですが、漢字、句読点、接続詞、文体、地名、人名など、さまざまな変更が加えられたことがお分かりいただけたかと思います。初版から三版までの改訂に比べれば、はるかに大きな改訂、全面改訂であって、実際、九割以上の節で何らかの変更が加えられました。
このように申し上げると、長年なじんできた新改訳がまったく別の聖書になってしまうのかと、危惧される方もおられるでしょう。しかし、私たちは多くの変更を加えながらも、なお新改訳としての連続性を保つことを心がけてきました。モニターの方々から、「ずいぶん変わっているはずなのに、雰囲気はあまり変わらない」といったたぐいのコメントをいただくので、ある程度、新改訳らしさを保てたのではないかと思います。
大切な原則の一つは、神に関わる多くの表現を、従来どおり平仮名表記にしたことです。神や主イエスが自らに言及なさるときは「わたし」、人間の場合は「私」です(「わたし」と読む人、「わたくし」と読む人、両方おられるので、あえてルビはふりません)。また、「みこころ」「ことば」「からだ」「さばき」「わざわい」「いのち」といった言葉も、引き続き平仮名です。漢字では被造世界の現実でイメージが固定化してしまうからです。できるだけ漢語でなく和語でという、初版以来の原則も保っています。
聖書が新しくなると、「せっかく暗誦した聖句を覚え直さなければならなくなる」という心配もあります。確かに、多くの箇所で変更は避けがたいのですが、変化を最小限にとどめる努力もしてきました。「宿題」のようで恐縮ですが、以下の三つの聖句を、第三版と比べてみてください。
マタイの福音書11章28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
使徒の働き1章8節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
変更の多くは、読点「、」を削るとか、漢字に改めるといったものであることがお分かりいただけたでしょうか。
コリント人への手紙第二5章17節、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。……」は、冒頭に「ですから」が加わります。暗唱聖句のことを考えると、この接続詞は無いほうがよいのかもしれませんが、この節は15節の帰結を述べているので、「ですから」が必要なのです。
ガラテヤ人への手紙5章16節は、「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」と変わります。「決して」は動詞に近いほうが自然です。また、肉の欲望に真の満足はないので、これまでの「満足させる」には違和感を覚えます。こうした修正で、暗誦しやすくなるのではないでしょうか。
最後にエペソ人への手紙4章1?3節の訳を、新改訳第三版だけでなく、新共同訳やフランシスコ会訳と比べてみてください。新改訳らしさ、連続性を保ちながら、訳文の改善に努めていることを理解していただけるかと思います。