『歎異抄』と福音 第六回 罪悪深重の自覚から
大和昌平
現代日本人が親鸞に強く心を惹かれるのは、なぜなのか。それは仏教が好きだというのとは次元が異なる。『歎異抄』が現代の古典として読まれているのは、なぜなのだろうか。人間の持つ根源的な罪悪への真摯なまなざしを、親鸞の内に見るからなのではないか。それは日本人が聖書の言葉に心打たれる経験に近いものがあるのではないだろうか。
『歎異抄』第一章後半を、そんな問いをもって読んでみたいと思う。
◇「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、たゞ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。」(第一章)|阿弥陀仏の本願は、老人であろうが若者であろうが、善人であろうが悪人であろうが関係はないのです。ただ信心だけが必要なのだと知るべきです。その理由は、深く重い罪悪と燃え盛るほどの欲望を抱える我々を助けようとしての本願だからです。
「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」と、ざらついたザ行の音が畳み掛けられている。欲にまみれた醜悪な人間の姿を直視させようとする親鸞のしわがれた声が聞こえてきそうだ。「煩悩熾盛」とは人間の欲望(煩悩)が燃え盛る炎に譬えられた仏教特有の表現である。檀一雄の私小説『火宅の人』は、家庭の不幸を顧みず不倫に走る自己を描いた作品だ。燃え盛る家(火宅)の中で遊び戯れる子どもに、人間の愚かさを仮託した仏教用語を題としたところに、戦後の破滅型作家の醒めた自意識を見る思いがする。
「衆生」は人間を含めた意識を持つ存在を意味して、sentient beingと英訳される。生まれ落ちて意識を持つものは等しく己の欲望ゆえに苦しむのだという深刻な人間観が仏教にはある。
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教。」|もろもろの悪をなさず、あらゆる善を行い、みずからの心を清めること、これが諸仏の教えである。
これは仏教の本質を示すとされる「七仏通戒偈(過去にいたであろう七仏に共通する戒めの言葉)」の文句である。悪を憎み、善に励む澄んだ心を理想とする仏教の、人間に対する明るい信頼を端的に表している。これと対比すると、親鸞の言葉には人間の悪への絶望の深さが濃厚だ。壮年時代の親鸞は主著『教行信証』に心血を注ぐが、晩年は和讃といって讃美歌のような詩作を多くしている。
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」
(「愚禿悲歎述懐」『正像末浄土和讃』)
自ら信じる宗教に打ち込んで、清浄な心を希求しても、偽りと不実にまみれた我が内に真実なものは存在しない。親鸞晩年の悲嘆の述懐であり、こういう言葉に現代日本人は逆に人間としての真実を見るのだろう。
「弥陀の本願」とは、阿弥陀仏の神話において、法蔵という人物が最初に抱いた誓願である。私が修行を行って仏となった暁には、幸い多い極楽を作り、私を頼る者をそこに迎えて、そこで覚りに至らせてあげたいという願いだ。ここには己の欲望に苦しむ人間への憐れみが表されている。その憐れみは、人間が良いとか悪いとかの道徳上の相対的なレベルを超えている。善悪を超えているという意味で絶対的な宗教のレベルでの憐れみであり、キリスト教の神の愛に近いものがある。
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作家の加賀乙彦は若き日に精神科医として死刑囚を診る仕事をしている(『頭医者事始』)。いつ「お呼び」が来るのかわからない不安と恐怖を抱える彼らの日常生活には、異様な騒々しさがあったという。その中で、平静な日常を送っている不思議な囚人たちに出会う。それがキリスト者と浄土真宗徒であったというのである。
社会生活における道徳的な善悪を超えた宗教の世界を、私たちは魂の深いところで求めている。死刑囚となった人も魂に絶対的な肯定を与えられてこそ、重罪を償う日々の生活に腰を据えることができたのではないか。加賀作品には「原罪」への強い意識があると思っていたが、遠藤周作の影響もあってカトリックのキリスト者となり、創作活動を続けている。
「罪悪深重煩悩熾盛」である人間への絶望が深いほどに、阿弥陀の本願の憐れみへの待望は大きくなる。そして、自らの行いではなく阿弥陀への信が中心となる。このあたりの消息は、自らの罪意識が深いほどに、キリストの十字架への信仰が絶大なものとなるキリスト者の信仰世界と相似形であるといえる。人間の善悪を超えた阿弥陀の憐れみへの信を説く親鸞に日本人が心惹かれることに、私は希望を持つ。その上で、キリストの十字架における神の義と愛との違いに、次回は焦点をあててみたい。