特集『聖書 新改訳2017』訳語選定にこめた思い

新しい『聖書 新改訳2017』の発表会が十月十一日、お茶の水クリスチャンセンターで行われた。「神のことば」を、現在とこれからの人々が使う日本語で正確に伝えようと奮闘してきた翻訳者たちの熱い思いが明かされた。

『聖書 新改訳』は一九七〇年に初版が出版され、それから四十七年の月日が流れた。日々変化していく日本語への対応や聖書学、言語学の進展に伴い、少なくとも三、四十年に一度は大きな改訂作業が必要だといわれている。聖書の内容が大きく変わるわけではないが、より正確な意味を求めて本文を精査する研究が進められてきた。
日本語訳の聖書としては『文語訳聖書』(明治訳)が最初の翻訳聖書であり、その改訂版として『大正改訳聖書』(一九一七年)が出版されたが、大正改訳は新約聖書のみの改訂にとどまった。
次に『口語訳聖書』(一九五五年)が出され、一九七〇年に『聖書 新改訳』が出版される。一九八七年には、カトリックとプロテスタントの共同訳である『新共同訳』が刊行された。
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「はじめに」か「初めに」か
日本の和訳聖書の歴史を振り返ってみても、前に出されていた日本語訳聖書を全面的に受け入れて改訂した聖書はなかったと翻訳編集委員長である津村俊夫氏は語る。
「『新改訳2017』は、従来の新改訳の理念を踏襲して翻訳されたのが特徴として挙げられます」
聖書翻訳の作業において、旧約聖書より短く、学者の層も厚い新約聖書から先にでき上がることが多い。新約には旧約の聖句が引用されているところもあるが、旧約は新約の三倍近くの量があるため、新約の翻訳作業の段階で旧約の該当箇所がまだ完全に訳し終わっていないという状況が起こる。
「新約と旧約の関係がうまく整理できていないまま、ということが今までありました。今回、最初から旧約と新約を同時に検討することができたのは大きな利点でした」と津村氏。
新しい翻訳の場合、翻訳を進めながら、あるいは翻訳が終わってから日本語の用字用語の検討もしていくことになるが、『新改訳2017』では最初からその作業をすることができ、より精度の高い全面改訂をすることが可能となった。
「新改訳は原文が透けて見える(トランスパレント)ような翻訳にこだわってきました。もう一つ、原典に忠実であること、そこからさらに日本語として読みやすい訳を心がけています。
創世記1章1節、『初めに、神が天と地を創造した』(第三版)を『はじめに神が天と地を創造された』(新改訳2017)と変更しました。“初めに”という言葉がひらがなになり、句読点が消え、敬語表現が追加されました。こういった変更箇所は何十時間もかけて検討され、特に“はじめに”という言葉は『初』という漢字を使うか『始』という漢字を使うか議論した結果、ひらがなに落ち着きました。
ヨハネの福音書1章1節にも『はじめに』という言葉があります。この『はじめに』は第三版では創世記1章と同じでしたが、創世記1章の『はじめ』は物事の始まりについて、ヨハネの福音書1章は永遠の初めを意味しているわけですから、同じ“はじめ”であっても意味が異なります。ですから、『新改訳2017』ではヨハネの福音書は『初め』としました。
原文が透けて見える例を一つお話しすると、創世記1章26節『さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて』を『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう』としました。というのも『かたち』も『似姿』もヘブル語では名詞形です。原文の名詞は、訳文でも名詞に置き換えることにしました。そのような検討を、少しずつ丁寧に重ねていきました」
「贖う」から「宥めを行う」に
旧約主任の木内伸嘉氏は「贖罪」に関係する訳語について紹介した。贖罪は、イエス・キリストの十字架の死と復活に関わる非常に重要な事柄である。
「レビ記4章2節で『罪を犯』すと訳されてきた言葉を『罪に陥り』という訳に変更しました。ここで使われている『ハーター』というヘブル語は、ある状態になる、ある状態に入っていくことを意味する単語です。この実存的な状態を表現するために、何かを具体的にする、しないということと区別して、『罪に陥る』としました」
従来「贖う」と訳出してきた「キッペール」という動詞は、新しい『新改訳2017』では、儀式的な文脈において「宥めを行う」に変更された。「贖う」という訳は、「パーダー」と「ガアル」という別々の動詞にも使われており、この「キッペール」との区別がつけられてこなかったという問題があった。
「キッペールの意味について長く議論されてきましたが、キッペールが神の怒りを宥めるものであろうという示唆は、創世記の32章20節や出エジプト記の30章12節などからも推定できます。
一つの論点として、次のようなことがあります。第三版のレビ記1章9節に、『なだめのかおり』という言葉が登場します。動物の頭に手を置く(4節)、血の儀式(5節)、残りを焼いてすべてを煙にする(9節)、これらすべての目的が『なだめのかおり』を立ちのぼらせることにあり、この目的が4節に登場するキッペールの意味と重なる、と想定できます。
ただ、この『なだめのかおり』という訳は、同4章の罪の贖いの儀式をみると、四通りの立場の人の罪が扱われているなかで、31節の民衆の一人が罪に陥った場合にのみ登場します。その他の祭司、会衆、族長が罪に陥った場合には登場しません。罪に対する責任が重い場合には『なだめのかおり』はふさわしくないということだと思われます。
御怒りの度合いが高くなればキッペールが登場し、より低くなると『なだめのかおり』が登場する。そうすると、『なだめのかおり』(〔新改訳2017〕『芳ばしい香り』)という訳語は行き過ぎで、むしろ、キッペールのほうに罪に対する御怒りの『なだめ』の中心的役割があると見るのが妥当ではないか」と木内氏は説明する。
「キッペールという動詞は一定の儀式を通してなされるので、難しい漢字ではありますが『宥』という漢字を使って、『宥めを行う』と訳すことになりました。基本的にはレビ記のキッペールについては『宥めを行う』、そしてパーダーには従来どおり『贖う・贖い出す』、ガアルという動詞には『贖う・買い戻す』という訳が充てられています。
きわめて重要なキリストの十字架の理解につながる用語ですので、注目していただきたいと思います」
「主の祈り」の三つの重要な変更点
新約主任である内田和彦氏は、諸教会でよく知られている「主の祈り」について、三つの重要な変更点を取り上げた。
「まず第一の変更は、従来『御名があがめられますように』と訳されていた箇所を『御名が聖なるものとされますように』と訳したことです。
伝統的には、そのほかの邦訳聖書でも『御名があがめられる』と翻訳されてきました。英語では“hallowed be your name”です。hallowedという単語には、あがめるという意味のほかに“聖なるものとする”という意味があります。原文の『ハギアゾー』という語は受身の命令形ですが、『あがめられますように』では、この言葉の本来の意味を表しきれません。
この言葉は新約聖書の中に二十八回出てきますが、『聖書 新改訳』の今までの訳でいえば、そのうち二十五回がこの『聖なるものとする』、『聖なる方とする』といった訳し方をして、『聖』という漢字を使ってきました。しかし、この箇所のみ『あがめられますように』と訳されていたので、訳としての一貫性に欠けていたのです」
神を神としてほかのものと区別し、“聖なるお方”であるということを意識させる。この世界の営みの中で、主ご自身が称えられるよう「聖なるものとされますように」と訳すのがふさわしいとの結論に至った。
「第二に、『私たちに負いめのある人たちを赦しました』と訳してきたものを『私たちに負い目のある人たちを赦します』と訳しました。
これは原文でいえば、『アフェーカメン』というアオリストと呼ばれるギリシア語の時制で表現されているところです。単純に訳せば、“赦しました”と訳すこともできますが、ギリシア語のアオリストは必ずしも過去の行為を意味するわけではなく、近年ギリシア語文法の専門家たちの間でも、現在形で訳したほうがよいと思われる箇所が多く挙げられています。
現在形と一口にいっても、さまざまな考え方がありますが、もう一つ、背後にヘブル語の用法があるのではないか、という気づきもありました。
それは、発話が行為遂行的な意味合いを持つケースがあることです。『私は約束します』と言うと、それは約束するだけに終わりません。『私は~することを約束します』と、その次の行為が生じてくるわけです」
すでにしたこと、というよりはこれからすること、そしてそのようにし続けること、負い目のある人たちを赦す、という決意の表明と取ることができる。「主の祈り」をそのような意味で理解するのが適切ではないか、と内田氏は語る。
「もう一つの変更点は、単純なことではありますが、『国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン』という言葉を本文で採用しなかったことです。
基本的に新約聖書の底本として、ネストレ・アーラントの二十八版、国際聖書協会連盟の第五版(USB版)を採用していますが、この『主の祈り』の結びの言葉は、写本上の根拠が非常に弱く、省かれています。したがってほかのメジャーな邦訳でもこの部分は省略されています。本文批評学の成果に従えば、マタイの福音書の最初の本文に存在していたとは思えません。そこで『聖書 新改訳2017』では、欄外の注にこの言葉を残しました。
これに関して、『主の祈り』を口語訳、または新改訳の翻訳で祈っておられる教会があるかと思いますが、あくまでも、教会の伝統の中で『国と力と栄えは……』という結びの言葉を、聖書そのものにあるなしは別にして、自分たちの祈りとして採用されたらよいでしょう。従来どおり祈りたいと思われるならばそれでよいですし、聖書そのものを自分たちの祈りとして祈りたいとのことであれば、結びの言葉は省いて祈ってもよいのではないでしょうか」
「キーワード」はひらがなで
原典に忠実であり、かつ日本語として自然に読めるものができるはず。それを目指そうと、日本語の面からの検討も加えられていると日本語主任の松本曜氏は語る。
「新改訳の日本語に関して重要なことの一つは、初版で『です・ます体』を重視する方針が取られたことです。『新改訳2017』でも、基本的にはこの方針を維持しています。
その一方で、文脈によっては、必ずしも『です・ます体』にこだわらずに、多様性を持たせることを方針としました。また従来の新改訳ではひらがなが多用されていましたが、読みにくいという面があったので、今回は漢字が増えています」
常用漢字を基本的に使いながら、特定の場合にひらがなを使う方針になっている。敬語の使い方も過度にならないようにし、また、日本語の変化に対応して現在使われている日本語の表現に変えるということなどを行ってきた。
「イエスの話し方は『です・ます体』が基本となっています。しかしながら、『警告』『怒り』を表しているような箇所では『です・ます体』を採用していません。イエスがどういう方かについて、口調から印象が決まる場合があるので、とても大切な作業でした」
今回、詩文か散文かについても改訂が行われた。今まで散文として訳されていたところを詩文にした箇所があり、また詩文を詩文らしい文章にするという努力がなされた。
そのほかに、男性が話しているのか、女性が話しているのかに関しても注意を払ったと松本氏。
「今まではルカの福音書1章46、47節のマリアの歌の出だしで、『わがたましいは』と訳されていましたが、女性の話し方としてあまり適切ではない表現なので、今回は『私のたましいは』と変更しました」
漢字の使用については、「いのち」「さばき」「たましい」「こころ」など、普通とは違う意味合いで使われていることばについては、ひらがなのまま残すこととなった。
「『キーワード』をひらがなのまま残したということは、今までの新改訳の雰囲気、新改訳らしさを残しているということになると思います。
おそらく従来の日本語チームの役割より少し踏み込んだ形になりましたが、聖書学の先生方と一緒に訳語の検討も行いました。ヘブル語、ギリシア語と日本語の語彙を比較して、『こちらの単語にはこちらの日本語を充てたほうがいいのではないか』という検討にかなりの時間をかけました」
現段階で最も適切な表現めざして
第三版の改訂は九百箇所、二頁に一箇所程度の修正で、小改訂といえるものだった。基本的な本文は初版、第二版とほとんど差異はない。
今回の『聖書 新改訳2017』では約三万節、全体の九割以上に何らかの変更が加えられている。内田氏は「聖書のテキストが言おうとしていることを、現段階で最も適切な形で表現していると思う」と語る。
原典に忠実でありながら、日本語として自然に読めるように、練って練って練り直して、完成度の高い翻訳へと高められていった『聖書 新改訳2017』。聖書は″誤りなき神のことば”という、福音主義の立場に立った、新たな翻訳を手にした恵みを実感するひとときとなった。ぜひ手にとって読んでみていただきたい。