特集 魂の詩人――八木重吉の世界 「八木重吉の詩」と私
第一宣教バプテスト教会 牧師
八木重吉の詩を愛好する会 事務局 天利武人
(一)私の自省の詩
私がはじめて八木重吉の詩に出会ったのは、高校生のとき、母が薦めてくれた『八木重吉詩集』だった。私の父は牧師で、母は青森から出てきて婦人伝道師となって父と結婚した。詩集を読むことに抵抗はなく、自然だった。最初に目にとまった詩は、「しのだけ」という詩だ。
この しのだけ/ほそく のびた/なぜ ほそい/ほそいから わたしのむねが 痛い
(『秋の瞳』)
この短い詩の中に、人の痛みを思いやる優しさと、自らの病に苦しむ思いとが折り重なっていて、その研ぎ澄まされた深い感性に驚かされた。孟宗竹と違ってしの竹は細く、庭の片隅の藪から細く伸びている。役に立たないしの竹を見て、彼の心が痛むのである。ほかにもこういう詩がある。
零 !
わが/好む 数!?/好む/数 あらじ!!/強ひても/云へとや!?/『零!』……/されど、「零」は/数にては、あらじとや!?
(詩集『夾竹桃』大正十二年)
ねがひ
きれいな気持ちでゐよう/花のような気持ちでゐよう/報いをもとめまい/いちばんうつくしくなってゐよう
(『信仰詩篇』大正十五年二月二十七日)
役に立たないような「しの竹」、「零」という数、量ではない「報い」を求めない心とは何を意味しているのだろうか。〈うつくしいもの〉は数、量(業績)ではない「零」である。「報い」を求めない愛という犠牲であり、無心であると私は思う。
地位や名誉や金銭的な欲求の誘惑に会うとき、私に自省の念を抱かせる詩だ。八木重吉の詩は、私の牧師生涯における貴重な助言者であり続けている。
(二)詩碑建立の詩
重吉は一九二五年三月、東葛飾中学校(千葉県柏市にある現東葛飾高等学校)の英語教師として兵庫県御影から赴任してきた。私自身、一九六四年の卒業生だ。重吉はそこから眺める自然界や、家族のことや、教室でのことなど三千編の詩を書いている。彼の創作活動の最盛期だ。
私は多くの人に八木重吉の詩に興味をもってもらいたいと詩碑建立実行委員会事務局長として奔走し、多くのかたがたから寄付を集め、一九八五年、東葛飾高等学校前、国道六号線沿いに詩碑を建立した。
建立詩碑
原つぱ
ずゐぶん/ひろい 原つぱだ/いつぽんの道を/むしやうに/あるいてゆくと/こころが/うつくしくなつて/ひとりごとをいふのがうれしくなる
(『文章倶楽部』大正十四年九月)
無性に歩いて行く一途さと、病を負っている身でありながら情熱を傾けて詩業を続けた道程が、また心の美しさを追い求め、喜びにあふれる充実した日々がこの詩の中に現れている。当時、八木重吉の住む職員住宅のまわりは野原が広がっていた。
(三)死に直面した苦しみと悩みの時の詩
二〇〇六年十二月四日、私の病名は「B群溶連菌による劇症型壊死性筋膜炎」と診断された。左肩に激しい痛みを覚え、左足が腿まで紫色に腫れあがり病院に行ったが、「単なる筋肉痛でしょう」とギブスをつけて帰らされた。翌日六時間もいろいろな科で見てもらい皮膚科でやっと病名が分かったときは意識が朦朧となっていた。医師から、「切断しなければ命が助からない」と言われ、左足股関節から離断した。当時この手術の生存確率は二〇パーセントと言われた。約十日間意識不明で、その間恐ろしい幻を見た。浸出液はベッドのシーツを一日に何度も取り換えるほどだった。耐えられないほどの痛みがあった。この間、私の心を癒やしてくれたのが聖書と八木重吉の詩だった。
いきどほりながらも
いきどほりながらも/美しいわたしであらうよ/哭きながら/哭きながら/美しいわたしであろうよ
(大正十四年八月二十四日編、詩稿『美しき世界』)
重吉の詩が多くの人に読まれているのは、 平易な言葉を用い、純粋で素朴な、しかも鋭さを秘めた詩だからだ。さらに、人が経験する苦しみ、痛み、悲しみ、それらが彼の詩と共鳴し、そして神の言葉である福音のメッセージが体験詩として心に入り、勇気と希望を与えてくれるからだ。もしその一冊の詩を読み続けるならば、その詩の魅力に惹かれることだろう。
仕 事
信ずること/キリストの名を呼ぶこと/人をゆるし 出来るかぎり愛すること/それを私の一番よい仕事としたい
(『ノオトA』)
草に すわる
わたしの まちがひだつた/わたしのまちがひだつた/こうして 草にすわれば それがわかる
(『秋の瞳』)
自らを悔い、痛みに耐え、片足でも仕事に復帰できた恵みを感謝しつつ、これからも聖書のことばと重吉の詩を伝え続けていきたい。
「ああ、私の味わった苦い苦しみは平安のためでした。あなたは私のたましいを慕い、滅びの穴から引き離されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」(イザヤ38・17〔ユダの王 ヒゼキヤの祈り〕)